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前述のとおり旧魚市場は、商港岸壁の一部を水揚げ処理場として使用してきたもので、出漁準備のための休けい岸壁もなかったため、県では旧魚市場の対岸杉の入地区に出漁準備港の計画をたて、昭和十八年から工事をすすめ、戦後の二十五年、総工費三千百三十九万六千円をもって完成した。この工事によって水深二メートルの魚揚岸壁百メートル、繋留岸壁七十メートル、護岸百九十二メートルのほか、しゅんせつ九六、四九九立方メートル、埋立地約三万三千平方メートルの施設が誕生した。
しかし戦後、漁業の復活に伴って漁獲量が増加し、漁船も大型化をすすめ、さらに昭和二十五年七月公布施行された漁港法によって商港区域内にある鮮魚処理場としての魚市場水域を漁港とすることは根本的に修正されねばならなくなり、新漁港法に基づく新漁港の修築が必要になった。
これに先立ち県と市では、この出漁準備港を足がかりとしてその東方に大規模な漁港をつくる計画をたて漁港協会にその設計を依頼していたが、昭和二十六年この計画を一部修正、継続事業として工事をすすめることになり、同年七月十日本格的な修築工事を起工した。
当初の計画は、中央埠頭を中心に東西延長二千百二十三メートルの棧橋と岸壁をつくり、水深は三メートルから六メートルとする。こうして百トン以上の大型船三十隻、百トン未満の中型漁船四十隻の同時接岸水揚げができるようにする。また前面四十万平方メートルの泊地には二百隻の碇泊が可能なようにする―というものであった。
その後工事は順調にすすみ、二十六年度から三十二年度までの第一次事業、三十三年度から三十九年度までの第二次事業によって、水深六メートルの中央埠頭百八十メートルのほか水深三メートル~四・五メートルの東西埠頭四百七メートル、合わせて五百八十七メートルの岸壁が完成し、中央埠頭には塩釜線港駅から海を渡って二千六百六十メートル、国鉄の営業線として魚市場線が布設された。また同時に杉の入表裏合わせて九十三万四千六百五十平方メートルの埋立土地造成もほぼ完成した。
なお、浅海漁業者との補償問題で難航していた係船岸壁(計画は獅子崎の突端まで八百五十六メートル)四百二十メートルが四十年から四十五年までの第三次事業で完成した。
またこの間、塩釜漁港は二十六年十月十七日には漁港法の規定によって第三種漁港に、三十五年三月二十一日には特定第三種漁港の指定を受けている。
なお、漁港施設はその後もひきつづいて整備され、昭和四十年新魚市場開設当時と五十四年現在とを比較すれば、それぞれつぎのように拡張された。
種類 |
昭和40年 |
昭和54年 |
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1.漁港の外かく施設 |
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護岸 |
886.2メートル |
1,175.メートル |
2.係留施設 |
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岸壁 |
732.4メートル |
815.1メートル |
桟橋 |
891.2メートル |
1,179.07メートル |
3.水域施設 |
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泊地 |
208.672メートル |
643.577メートル |
4.機能施設 |
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道路 |
1,513.25メートル |
15,696.47メートル |
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(幅員最大28メートル) |
(幅員最大28メートル) |
新漁港修築工事の進捗によって昭和三十七年には中央埠頭が完成した。かくて市は国、県並びに市場関係者と協議を重ね、起債の見とおしもついたので翌三十八年一月二十九日新魚市場建設の工を起こし、四十年九月五日総工費四億五千万円をもって完成、十月一日多年懸案の新魚市場が開場した。
当初の施設規模はほぼつぎのとおりであった。
22,650.33平方メートル
23,582.13 〃
鉄骨造一部鉄筋コンクリート造二階及び塔屋(三・四・五階)
(一階) 本屋の部
小計 14,494.99
(二階)
小計 6,332.86
(屋外)
小計 1,131.36
(塔屋)
小計 331.8
(二) 附属家の部
小計 1,291.12
総建 23.58
坪 2.13
(市有以外の分)
小計 347.07
二ヶ所
仲売市場の前身は、旧魚市場西側にあった小売市場である。旧魚市場は前述のとおり昭和四年四月開設されたが、当時魚市場内で取り引きに参加できる仲買人は、塩釜海産物問屋組合に所属していた百数十人(昭和十三年四月、単一合同の株式会社塩釜魚市場の発足と同時に、仲買人はその業務規程によって百人と限定された)に限られており、この仲買人一人につき小仲買人五人ずつが買参人として認められていた。
これら小仲買人は、仲買人から鮮魚を買い受け、地元や近在の買出人に販売する仕組みになっていたが、その販売場所は本場においては堅く禁止されていたので、必然的に本場附近にその場所を求めることとなり、旧魚市場西入口道路筋に青空市場が出現するに至った。
発足当時はトラック等も少なく交通を妨害することもなかったが、その後次第に販売数量もふえ、トラック等が増加するにつれ、魚市場周辺の混乱が著しくなってきた。
このため、昭和八年、当時魚市場の管理に当たっていた塩釜水産株式会社は、県に要請して魚市場西側の製氷設備予定地を開放し、小売市場として新築開場した。
戦時中一時、小売市場の運営は宮城県水産会に移譲されたが、戦後は再び小売業者の団体の手に移り、経営も自主的に組織化され鮮魚のほか塩干物、ネリ製品等も取り扱うようになった。
かくて昭和四十年、新魚市場の新浜町移転に伴い、小売市場もまた同年、仲卸市場と改称して新浜町に移転新築し、いまや活発な商取り引きによって本場の分場としての役割りを果たしている。
ちなみに現在仲卸市場内の組合は、協同組合連合会塩釜仲卸市場、塩釜魚類卸商業協同組合、塩釜中央鮮魚商業協同組合、塩釜鮮魚卸商業協同組合、塩釜水産物加工品商業協同組合の五団体である。