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【塩竈神社の藻塩焼神事】
海水を煮て塩をつくるかまど(竈)のことを「塩竈」といいました。つまり、もともとは地名ではなく、製塩用のかまどのことを指す名詞でした。以前は日本の各地の砂浜にこのようなかまど(塩竈)があり、これが海辺の風景におもむきを添えていたといわれています。わが郷土も、この竈のある場所として有名になり、それがそのまま地名になっていったといわれています。塩竈という地名のほかに、国府津(『こうづ』と読み、国府の港という意味です)とも呼ばれていましたが、塩竈神社が、陸奥国の総鎮守(多賀城から見て東北の方角に位置する鬼門を守る意味がある)として建てられ、信仰を集めるようになり、国府津よりも塩竈の方が地名として定着していったものといわれています。
4世紀から5世紀にかけて、大和朝廷(わが国を最初に統一して治めるようになった政権)は、九州から関東地方に至る地域を統一しました。7世紀の中頃(大化の改新・645年のころ)には、東北地方にもその力が及ぶようになり、現在の宮城県、福島県、山形県の一部などの地域が「道奥国(みちのおくの国)」と呼ばれるようになりました。7世紀の後半に「陸奥国(むつのくに)」と名前がかわりました。しかし、陸奥按察使(むつあぜち…大和朝廷から派遣されきた役人)が暗殺されるなど、東北地方に対する大和朝廷の政治的な基盤が不安定であったため、地域の政治的・軍事的な拠点として多賀城に国府が築かれました(724年)。陸奥国よりさらに北に位置する地域は、えみし(蝦夷)の国といわれていましたが、大和朝廷は、712年に出羽国(でわのくに。現在の山形県、秋田県)を建国し、徐々に開拓を進め、733年には、現在の秋田市に、出羽柵(柵…お城)を築いています。780年、えみし(蝦夷)の反乱事件が発生し、790年に大規模な征夷軍10万が組織され、反乱軍は鎮圧されました。このときに副使として任ぜられた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、後に(797年)、征夷大将軍に任ぜられ、陸奥国の最高責任者となりました。東北の各地に坂上田村麻呂の伝説が残っています。
この地域に塩竈神社や志波彦神社(宮)があり、また多賀城(城)が置かれていたことから、[宮城]という地名が生まれたといわれています。
平安時代のはじめに書かれた「弘仁式主税帳」にはじめて登場します。それによると、「塩竈神社神祭料1万束」とあり、その頃、塩竈神社が相当大きな神社になっていたことがわかります。
しおがま桜、しおがま菊などの植物名のほかに、高山植物の中に、「ヨツバシオガマ」など「しおがま」という種類の仲間があります。・ヨツバシオガマ(四葉塩竈)・コマノハグサ科シオガマ属シオガマ属の高山植物で代表的なのは、紅色のヨツバシオガマ(四葉塩竈)、ミヤマシオガマ(深山塩竈)、タカネシオガマ(高峰塩竈))、黄白色のエゾシオガマ(蝦夷塩竈)などで、長野県や山梨県などの高山で見られます。このほか、北海道でのみ見られるキバナシオガマ(黄花塩竈)など、いずれも可憐な美しい高山植物で、心をなごませてくれます。
【ヨツバシオガマ(四葉塩竈)】