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二高ボート部遭難

印刷用ページを表示する 更新日:2020年3月1日更新

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災害(二高ボート部遭難)

二高ボート部遭難

昭和9年12月28日に旧制第二高等学校のボート部選手7名と東北大学の学生3名が全員水死した事故がありました。
松島湾内を含む浦戸地区で起った水難事故としては最大のものです。

昭和9年12月25日、二高ボート部の学生7名と指導者として乗り込んだ東北大学生3名が、遠漕をかねて流勢のあるコースの漕法研究のため、塩竈を出発し石巻に向かい、26・27日と北上川で練習し、28日朝、野蒜の貞山運河を経由して帰路につきました。
途中、艇の底に水漏れを生じたので、野蒜付近で検査したところ、ボートの底に約8寸(約25cm)の裂傷を発見したため、自ら応急処置を施し、午後2時東名の貞山運河出口から、湾内に乗り出しました。
その頃、朝から吹いていた北西の強風と雪を交えた悪天候が重なり、小鯨島沖にさしかかった時、海水の浸入と大波のために転覆し、大惨事となってしまいました。

厳冬の夕方5時過ぎであったため、救助を求めることもできず、全員水底に葬り去られてしまいました。

写真 遭難の碑地図 鯨島

鯨島は朴島の北西に位置する島、大きい方が大鯨島・小さい方が小鯨島です。
鯨島には遭難の碑が建てられています。

浦戸郷土史家の鈴木寛三さんは、当時のことを、ご自身の著書の中で次のように著述しています。

昭和9年12月28日、当時筆者(鈴木寛三氏)は歩兵第四聯隊第二中隊に現役兵として入隊していた。3日間の年末休暇を得て帰宅した午後4時頃であったと思う。村中の人が役場よりの緊急連絡を受けこの遭難を知ったのであるが、雪まじりの強風のため、小船ではとても出動のできる状況ではなかった。その晩は朴島の入江に待機していたが、寒さがきびしいので焚火をしようと思っても強風のためそれもできない。
翌29日、日の出と共に風もなぎ、海もうその様に静かな朝をむかえ、湾内各部落から総出の数千に近い人たちで捜索がはじめられた。筆者も数人と共に小舟に同乗したが遭難現場がどこか知るものがない。
湾内広範囲の捜索が行われたが、当日は発見するに至らず、日没と共に打切りのやむなきに至った。
30日は、帰隊の日であるため捜索に加われなかった。同年輩頃の遭難者達の冥福を祈ると共に、早期に遺体の発見を祈りながら原隊への帰路についた。
師走の折りに亡くなった、学生達の凍死の苦しみ方を想像したとき、なんともやりきれない思いであった。
数日して、郷里の友達より遺体全員が発見された事の連絡を受けた。ボートが発見されたのは、鯨島の碑のある真下であったという。
いずれの遺体も、紅顔のそして眠るが如き安らかなものであったとの事、只々ホットしたのは一人筆者のみではなかったと思う。

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