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第二編 旧魚市場開設

印刷用ページを表示する 更新日:2019年12月2日更新

本文

 一、当時の受け入れ態勢

しからば当時、塩釜港の鮮魚受け入れ態勢はどうだったか。明治中六軒に過ぎなかった魚問屋は大正初期に八軒、末期に十一軒、昭和四年には十七軒(註4)と増加し、前述のように問屋の投資による製氷会社の設立さえみるに至っているが、これら問屋の取り引きの実態は藩政時代と変わらず、各店舗前の庭先での委託販売の域を脱しなかった。

しかも狭い旧船溜りを中心に旧千賀の浦から旧港駅前、海岸通、本塩釜駅前まで、狭い区域に十七軒の問屋がほとんど軒を並べ、その状況について宮城県文書はつぎのように極めて簡潔に描写している。

「塩釜町に陸揚げされる鮮魚は年に四万二千トン、その価格壱千万円に達するも、これが取引の状況を見るに、従来狭隘なる船溜において輻輳せる漁船より陸揚げされ、然も何等の設備なき道路上にて売買せられ、価値ある鮮魚もその鮮度を失墜すると共に価格を低廉ならしめ、雨天又は炎天等の場合は悪臭汚物市街の中心地に暴露せられ、交通衛生的見地よりも観るに忍びざるものあり、又販売組織に何等の統制なきため、魚価に公定相場なく、且、売掛金回収に苦しむもの尠からず、これがため販売代金の支拂を遅延する等取引の円滑を欠く事例尠しとせず、又従来運輸機関との連絡に欠くるため、輸送上不便なるのみならず、多額の冗費を要するの状況なるを遺憾とす」

このように年間四万トンをこえる漁獲物が狭い船溜りを囲んで水揚げされ、庭先販売とは名目だけで、実際は各店舗前の路上で取り引きが行なわれ、雨天や炎天の場合は汚物や悪臭が市街の中心地にさらされるなど、交通上、衛生上からも限界に達していた。

しかも問屋と漁業者の取り引きや受入態勢も全く前近代的で整備されず、さらに背後地にも加工、冷凍等の受入施設の充実が必要となっていた。

註4:昭和二年、塩釜海産物問屋組合規約に名を連ねているのは、つぎの十七人である。
鈴木平治、佐藤久吉、横田善兵衛、芳賀奈七郎、鈴木忠吉、阿部亀治、中村福七、高橋勝蔵、高木英助、小松寿右エ門、鈴木利三郎、株式会社東海林商店、遠藤金一、三枡直治、小松米吉、鈴木文蔵、平塚栄左衛門
なお、明治四十三年の塩釜町海産物荷受問屋組合規約には、組合員として塩釜水産株式会社、阿部源吉、平塚栄左衛門、横田善三郎、今野幾三郎、海老藤エ門、佐藤久吉、丹野富之助、日野喜代治、小松寿右エ門、鈴木平治、佐藤春吉、金森広吉、鈴木忠助、三枡直治、阿部亀治、横田善兵衛、千葉吉助、遠藤市之助、丹野柳之助、中村福七の二十一人が連署しており、明治末期の問屋は二十一軒であったこと、また、大正期にかなりの異動があったことがわかる。

二、魚市場開設へ

このような前近代的な状況は、ひとり塩釜だけでなく、石巻、気仙沼、渡波、女川等の各漁港も同様であった。このため県は昭和三年六月、食品市場規制を制定し、それまで(註5)各漁港で単独経営をつづけていた魚問屋を統合して近代的な単一市場化の推進を企画、前記五漁港を指定した。

同規則は一地区一市場主義の採用を明確にするとともに、(規則第一条 卸売市場の開設ハ同一市町村ニ於テ同一種類ニ付一開設者ニ限リ之ヲ許可ス)、符丁取引の廃止(同第十二条 開設者ハ左記ノ帳簿ヲ備ヘ、売買取引ニ関スル事項ヲ其都度明確ニ記載シ苟モ符牒若ハ暗号ヲ用ウルコトを得ス)、セリ取引の強制(同第九条第三項…卸売市場ニ於テハ糶売ノ方法ニ依ルヘシ)等をおもな内容とするものであった。

塩釜の場合は、狭隘な船溜りでの水揚げが限界に達していたこと、大正二年に着工された第一次港湾修築工事(大正二年宮城県工事をもって着工、同六年内務省直轄工事になり昭和十年、事業費約七百万円で完成、この工事によって三千トン岸壁三百三十メートル、千トン岸壁二百メートルのほか、延長千三百二十一メートルの物揚場、護岸が増築され、その背後に現在の港町、中の島、尾島町の一部など約六十六万平方メートルの土地が造成された)が進捗し、埋立地の一部開放の時期が到来していたこと、また、明治末年には海産物荷受問屋組合や海産物仲買組合が設立されるなど、他港に比して魚市場受け入れの基礎が整っていた。

こうしたなかで県は、大正十五年十月、築港埋立区域に県において魚市場施設をつくり、これを塩釜町に貸し付けて管理させ、その業務経営は従来の魚問屋十七軒に任かせようとする計画を立案し、塩釜町に諮問、答申を得て翌昭和二年七月臨時県会の議決を得た。県では、ただちに簡易保険積立金から十一万五千円を借り入れ、同十一月着工、翌三年六月当初計画の上屋を完成した。つづいて四年三月には鉄道貨物引込線と貸切小口上屋建物等の追加工事が完成した。

上屋は長さ三百四十六・五メートル幅十六・五メートルの鉄筋ストレート葺で、これに浮棧橋、水道施設一式が完備し、鉄道と直結する魚市場として当時東洋一の規模と称された。しかし魚市場新設、問屋の移転はすんなりと決まったわけではなかった。当時、魚市場の新設移転問題は、町中心部の盛衰にかかわる問題としてまちの世論を二分し、連日のように町民大会が開かれるなど騒然たる空気に包まれたという。移転を時期尚早とするのは、まちの経済を支配する魚市場取り引きの場を当時未開発の地域であった埋立地に移転するのは、町中心部の衰微を招来するというものであり、移転賛成の論拠は、魚市場の開設はもはや時代の要求であり、将来の発展のためには多少の過渡的な犠牲もやむを得ないという大局的な立ち場に立ったものであった。

このため県では移転反対の少数問屋を収容するため、二軒茶屋に二百六十四平方メートルの鉄筋上屋の市場施設を付設した(小売市場とも呼ばれたが、実際には一度も使用されなかった)。

かくて昭和四年四月、大多数の問屋が新設の魚市場に移転し、魚市場開設の一頁をひらいた。

註5:食品市場規則制定以前の県の問屋に対する規制は、明治二十年十二月十六日県令第八十一号の「市場設置に関する件」だけであるが、その全文は凡ソ市場ヲ常設シ営業ヲ為サントスル者ハ其願書ニ設置ノ方法及ビ地所ノ図面ヲ添へ区戸長ノ奥書ヲ受ケ所管警察署又ハ分署ヲ経テ県庁ニ願出ツヘという極めて簡単なもので、ここでいう市場は、現在のような統一市場施設や統一的な卸売機関でなく、個人経営の庭先販売向の店舗の呼称で、これが許認可の対象となったのである。

三、単一合同化への道

これに先立ち魚市場の受け入れ機関として昭和二年、問屋の単一合同化を目標として塩釜魚市場株式会社が一般株式公募(移転賛成問屋及び有志)によって設立された。しかし問屋が祖先伝来の営業権を放棄して単一合同化をはかることは実際には容易でなく、同社は当分の間市場施設の管理運営だけを担当することになった。

一方、県の食品市場規則によって、同社に参加しなかった問屋は、四年九月以降問屋業務をつづけることができなくなった(同規則第二十九条 本令施行ノ際現ニ第一条に掲ゲル市場業務ヲ営ム者ハ市場問屋其ノ他如何ナル名称ヲ以テスルヲ問ハズ昭和四年八月三十一日迄ニ本令ニ依ル知事ノ許可ヲ受ケルニ非ラザレバ該日以後其業務ヲ営ムコトヲ得ス…)。

このため再び全問屋合同の機運が生まれたが、この間の事情について昭和十一年帝国水産会の「魚市場に関する調査」は、塩釜魚市場について、つぎのように簡明に述べている。

「昭和四年四月本市場開場以前ニ於テハ、本町ニ於ケル水産物一切ノ処理ハ、塩釜駅前内湾海岸通リノ路上ニ行ハレ居タリシガ、其間各問屋ノ競争甚ダシク、且何等ノ統制ナク取引上需給ノ円滑ヲ缺キ、又、交通、保安、衛生上等ヨリ兎角ノ批難アリテ、魚市場ノ改善ハ地元多年ノ懸案タリシナリ。然ルニ、築港埋立工事ノ進捗ニ伴ヒ、埋立地内ニ魚市場建設ノ議起リシモ一部問屋ノ反対アリテ決行ヲ躊躇セシガ、築港工事ノ完成ノ近付クト共ニ、漁船ノ出入増加シ、益々完備セル魚市場ノ必要急ヲ告ゲ、移転ノ逡巡ヲ許サザルモノアリシカバ、移転反対ノ少数問屋ヲ収容スベク二軒茶屋海岸ニ八〇坪ノ鉄骨上屋ノ市場設備ヲ建設シ、其他ノ問屋ノ全員ヲ以テ予定計画ノ魚市場内ニ収容スル方針ヲ決定セリ。依テ県当局ニ於テハ市場建設資金トシテ簡易保険局ヨリ低利資金ノ融通ヲ受ケ昭和二年秋工ヲ起シ昭和四年三月竣工ヲ見ルニ至リタリ。而シテ市場設備ノ完成ト共ニ市場経営主体及ビ市場管理主体ニ関シテハ相当異論アリタルモノノ如クナルモ、結局、市場設備ヲ塩釜町ニ貸付ケ之ヲ町管理下ニ置クト共ニ、市場ノ経営ニ関シテハ旧来ノ問屋及地元有志ヨリ成ル塩釜魚市場株式会社ヲシテ行ハシメ、昭和四年開場スルニ至レリ。之ヨリ先県ハ一地一市場主義ニ依ル食品市場規則ヲ制定発布セル為、昭和四年七月以降本町ニ於テハ本市場以外ニ於テハ如何ナル名義ヲ以テスルモ他ニ市場建設ヲ許サレザルニ至リシヲ以テ、市場移転反対論者タル少数問屋モ大イニ焦慮スルトコロアリ、且ツ新魚市場開設後ノ実績相当見ルベキモノアルヲ知リ、新魚市場ノ収容ヲ応諾スルニ至リシカバ、塩釜魚市場株式会社ハ町当局ノ斡旋ノ下ニ、問屋ノ全員ヲ以テ組織セル塩釜水産株式会社ニ其地位ヲ譲リ解散セラレタリ。塩釜水産株式会社ハ昭和五年六月以降、市場経営ニ当リ単一卸売市場組織ノ道程トシテ暫定的ニ会社自ラ売買行為ヲナサズ、其統制下ニ十七名ノ問屋ヲシテ個別的ニ委託販売業務ニ当ラシメ居レリ。」而シテ単一卸売会社設立時期ニ関シテハ、町当局ト営業者間ニ相当紛議ヲ醸シタル如クナルモ、昭和十二年七月一日ニ両者妥協ヲナシ市場収容ニ伴フ老舗料査定ニ付テモ協議ノ結果各問屋五個年ノ営業成績即チ昭和十年六月三十日ヲ中心トスル過去三個年、将来二個年ノ売上高ヲ基礎トシテ老舗料ヲ算定スルコトトナリ、従ッテ現在ノ会社資本金額ノ増額ヲ実施スルモノノ如ク、既ニ大勢ハ単一卸売会社設立ニ傾キツツアルガ如シ」かくて昭和五年六月、塩釜水産市場株式会社の誕生によって、ようやく新魚市場に十七軒の全問屋が収容され、一応つぎのような流通機構が確立されるに至った。

しかし同社は前述のとおり施設の管理のみを担当し、統一卸売業務を行なったのではなく、市場内では依然として各問屋がそれぞれ従来どおりの問屋業務を行ない、実質的には旧来の問屋流通機構と大きな相違はなかった。

三、単一合同化への道の画像

これに対し新会社の設立、統一市場への全問屋収容のさいの県並びに町当局の意向は、あくまでも単一卸売機関による統一卸売業務の創設にあったのであり、その過渡的措置として問屋の個別販売業務を認めたものであった。

しかし、その後も問屋合同が進展しなかったため、町と問屋側との対立が激化し、昭和九年町当局は卸売業務の町営案を町会に提案して議決を受け、その実施を県に申請した。これに対し問屋側もまた商工組合を結成し、組合による市場運営案(形式は単一であるが実際は従来どおり問屋による個別業務)を県に申請した。
両者の対立抗争はその後二年以上もつづいたが、昭和十一年、県のあっせんによってようやく妥協が成立した。その条件は、

  1. 二年間の準備期間をおいて新会社を設立し全問屋の合同を実現する。
  2. 従来の問屋の営業権を査定し、それを現物出資として新会社の株式を問屋に交付する(営業権補償株式)。

というものであった。

この営業権補償は、裁判所が選任した伊丹栄三郎弁護士によって査定されたが、各種帳簿を調査した結果昭和八年から十一年までの年間平均売上高四百万円、その純益金八万円とし、年利五分として八万円の利子を生む元本金百六十万円を営業権の正当価格と査定したものであった。

かくして株式会社塩釜魚市場(資本金二百五十万円、うち百六十万円は前述の営業権補償株式、残り九十万円のうち四分の一現金拂い込み)が設立され、多年にわたる懸案がようやく解決し、ここに名実ともに一地区一市場一業務者という魚市場機構が確立した。

ちなみに県内各漁港とも事情は塩釜の場合とほぼ同様で、単一市場が実現したのは気仙沼が昭和十年、石巻は昭和十五年と数年から十年以上の年月を要した。

四、戦中の統制経済時代

株式会社塩釜魚市場はその後、仙台湾のイワシ、サバの大漁と満州事変等による景気上昇の波にのって売り上げ高も年々増加、また魚市場周辺には次第に水産関係施設が充実され、昭和十一年には十一万九千トンの水揚げをみるに至るなど、順調な発展をつづけた。またこのころから七ヶ浜方面からは船主、桃生、牡鹿、三陸沿岸の諸港からは加工業を目ざす人たちの塩釜移住が目立ってふえてきた。

しかし、昭和十二年上海事変の発生とともに米穀、衣料などの統制経済が強化され、十四年には国民徴用令、価格等統制令、物資使用収用令等が相次いで施行された。つづいて十六年には農林省令によって一般水産物についても配給統制、価格統制が実施され、水揚漁獲物はすべて農林大臣の定める計画的分荷配給を行なうこととなって、魚市場はもはや商業的取り引きの機能を失うに至った。

一方、燃料の欠乏、規制、漁船、漁船員の徴用によって水揚量も激減、二十年には六千七百トンにとどまった。

戦時体制化、魚市場が商業活動の場でなくなると同時に、生産者優先の立ち場から生産者の発言権が大きくなり、鮮魚仲買業務も次第に活動の場を失った。業界では十五年五月大同団結して塩釜鮮魚出荷三協組合を組織して共同出荷を開始したが、やがて戦争のし烈化とともに全国主要漁港の魚市場に出荷統制組合が生まれた結果、三協組合もまた鮮魚介配給統制組合に吸収合併され、組合員の多くは水産加工業に転向し、一部は統制組合の職員に採用された。

戦時体制化の漁業生産は、燃油、漁具、漁網、その他の資材が極端に不足し、資材はすべて配給制となり、漁船のトン数、機関の馬力数によって割り当てられ、指定水揚地に対する水揚数量に応じてランク制によって配給された。

一方、魚市場機構に対しても商業的資本の介入を排除する傾向が生まれ、昭和二十年、株式会社塩釜魚市場の株式は、宮城県水産業会に譲渡のかたちで集約され、戦中戦後の魚市場経営権は同業会に移った。

五、戦後出荷機関の整備

終戦直後の二十年十月、政府は漁業界の生産意欲を高揚するため、一時生鮮魚介類の配給統制と価格統制を撤廃したが、当時生産力が極度に低下しているなかで、魚価は高騰をつづけ、国民生活に重大な影響を与えることになったため、二十一年三月再び配給、価格の両面にわたって統制が行なわれた。

その後政府は二十二年六月、復興銀行等の融資によって漁業の再建と生産の増強をはかるとともに、水揚漁獲物の均衡配給と独占排除を目的として、生産地魚市場に複数の農林省公認の出荷機関制を、消費地魚市場には公認の荷受機関制を採用することとし、統制のワク内での集荷配給の実績上昇をはかることにした。

この結果、各漁港とも多年戦時統制経済に苦しんでいた戦前の業者や地元生産者が争って集出荷機関を設立したため、サカナの供給不足需要過多の不均衡状態が生まれ、現実を無視した出荷機関乱立の弊害が出現するに至った。

塩釜魚市場でも宮城県漁業協同組合連合会(宮城県水産業会より継承)、塩釜海産株式会社、塩釜地区機船底曳網秋刀魚漁業協同組合、塩釜漁船株式会社、福島県いわし揚操網漁業協同組合、東北水産株式会社、宮城県冷凍商工業協同組合、大洋漁業株式会社の八業者が出荷機関として農林省の公認を得たが、やがて出荷機関乱立と統制方式との矛盾、不良債権、滞貸金の累積のため経営に苦しむ機関が生まれるに至った。かくて農林省計画責任数量の集出荷を収め得ないで業務を中止する機関も生じ、統制末期には五機関に減少した。

こうしたなかで塩釜市は、二十四年四月、魚市場管理事務所を設置し、宮城県漁業協同組合連合会に対する委託管理の形態を改め、市場業務調整の第一歩を踏みだした。

つづいて二十五年四月には、水産物の統制と価格統制が全国的に撤廃され、魚市場はほぼ十年ぶりで商業的取り引きの場に復活した。

やがて戦後の混乱が次第に収拾されるにつれて、出荷機関間に業務の統合の機運が生まれ、幾度かの話し合いの結果、宮城県漁業協同組合連合会(以下、県漁連)と塩釜地区機船底引網秋刀魚漁業協同組合(のち塩釜地区機船漁業協同組合と改称)は、生産者の立ち場から、それぞれ単独経営をつづけることとし、他の商業系列にある六機関(塩釜漁船株式会社は一年後に合併)は企業合同に同意してそれぞれ精算事務に移行、二十七年九月株式会社塩釜魚市場の設立をみるに至った。

その後三十二年になって県漁連は、財政不振のため財政整備促進法の適用を受けることとなり、不採算性の事業の整理と遊休施設の整備を行なうことになったため、株式会社塩釜魚市場との間に卸売業務権と塩釜市所在の冷凍製氷施設の譲渡が行なわれた結果、塩釜魚市場の卸売業者(二十五年三月統制撤廃と同時に、宮城県はあらたに魚市場条例を制定、従来の公認出荷機関は卸売人と改称し、知事の許可制とした。つづいて昭和四十六年十二月、宮城県卸売市場条例の公布施行によって卸売人は卸売業者と改称された)は、株式会社塩釜魚市場と塩釜地区機船底引網秋刀魚漁業協同組合の二者併存の複数制となり現在に至っている。

六、魚市場施設の改善

一方、魚市場施設は戦時中全く補修、しゅんせつされず、さらに一部岸壁は爆撃を受けるなど荒廃を極めていたが、戦後、漁業界の立ち直りによる漁船の大型化、漁法の改良などによって大量水揚がつづき、旧来の魚市場施設では狭隘を告げるに至った。

このため塩釜市では昭和二十六年、工費三百六十万円をもって延べ三百七十平方メートルの処理場上屋を既設上屋に隣接して増築と同時に、県に要請して同年から三十年まで、工費千四百五十四万円をもって突出淺橋延長百二十三・四メートルを構築した。

このころ塩釜魚市場に水揚げされる魚類のうちサンマが総水揚量の50パーセントを占めるに至り、いわゆる季節漁的性格を濃くしていたため、その盛漁期には水揚処理、搬出等に困難を極めた。とくに通路と貨車ホームとの間にあった県漁連所有の木造貸事務所施設を上屋二階に移す改善工事が緊急の課題となった。

このため県魚連は幾度かの話し合いの後、市場関係十一団体の要望を受け三十年七月、鉄筋防音防火の連鎖式二階建上屋、階下吹抜通路一棟三百五十六・四平方メートル、六棟合わせて二千百三十八・四平方メートルを新設し、従来の木造貸事務所を撤去した結果、従来四・五メートル(延長四百九十五メートル)の通路が八・二メートルに拡張され、大型トラックも自由にすれ違うことができるようになるなど、旧来の面目を一新した。

なお、この上屋兼貸事務所は、三十二年九月、県漁連の塩釜魚市場における卸売業務廃止に伴って塩釜市に譲渡された。

また、同年、水産関係者は魚市場中央通路正面上屋貸事務所に連結し、工費千五百万円(うち四百五十万円市負担)をもって水産会館六百二平方メートルを建設、市に寄附したため、塩釜市は魚市場施設の大半を所有するに至り、ここに名実ともに魚市場開設者としての体勢を整えた。

ちなみに当時の旧魚市場の施設を整理すればつぎのとおりであった。

一 敷地

8,343.06平方メートル

二 施設

  • (一) 県有分処理場 2,598.75 平方メートル
    市有分処理場 371.25 〃
  • (二) 突出棧橋 673.25 〃
  • (三) 水揚岸壁 1,173.15 〃
  • (四) 貨車積ホーム 777.15 〃
  • (五) 通路(階下吹抜) 2,421.38 〃
  • (六) 小口貨車ホーム 290.40 〃
  • (七) 貨物扱所 37.79 〃

三 建物

6,257.73平方メートル

  • (一) 県有分上屋 2,598.75 平方メートル
  • (二) 市有分
    • イ 上屋 371.25 平方メートル
    • ロ 階上貸事務所 2,138.40 〃
    • ハ 水産会館 601.69 〃
    • ニ 入札所(木造平屋) 41.25 〃
    • ホ 魚市場事務所 39.60 〃
    • ヘ 倉庫 31.34 〃
    • ト 便所 9.90 〃
    • チ 水揚仲仕作業員詰所 56.11 〃
    • リ 監視所及びポンプ配電室 41.25 〃
  • (三) 鉄道所有分
    • イ 小口貨車積ホーム上屋 290.40 平方メートル
    • ロ 魚市場貨車扱所 37.79 〃
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