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第四編 魚市場周辺の整備

印刷用ページを表示する 更新日:2019年12月2日更新

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 一、水産加工団地建設

本市の水産加工業は前述のとおり、明治期のカツオ節、塩干物、焼竹輪等の製造にはじまるものであるが、昭和三十年後半期にはいってサツマ揚、焼竹輪、笹カマ等のネリ製品製造が急激に増加し、同四十二年市内の加工業者はネリ製品八十六、一般加工百五十八、缶詰五、合わせて二百四十九を数え、生産高もまた同年十一万二千トン、百三十六億二千万円に達した。同年の水揚高はちょうど百億円だから、まさに水揚げ高をこえる水産加工だったわけである。

このうちスケソウタラを主原料とするネリ製品が五万二千八百トン、六十三億四千万円と過半を占めるに至っているが、スケソウタラの一次処理、スリミ製造には多量の水を必要とする。

一方、ネリ製品製造をはじめ本市の水産加工業は、漁港塩釜の発達とともに家内工業から中小工業へと成長をつづけてきた業種だけに、工場はいずれも市内の商店街や住宅地に散在し、工場と住宅が一体化しているのがほとんどだった。ネリ加工業の発達とともに、これら水産加工場の使用水量もふえ、四十二年には一日当り千五百五十四トン(うち千四十三トンがネリ関係)の汚水がそのまま市内の側こうや下水に流され、まちの悪臭と松島湾内の浅海漁場の汚染が社会問題として登場するに至った。

こうしたなかで三十三年には公共用水域の水質の保全に関する法律が施行され、ノリ、カキの養殖漁場である松島湾は同法の適用を受け、水産加工物の製造工程から生ずる汚水の処理に強い規制が行なわれることになった。その後四十年には宮城県公害防止条例、つづいて四十二年には公害対策基本法が制定されるなど、産業公害に対する世論はますます高まり、本市水産加工場の汚水や悪臭対策が緊急の課題となった。

このため本市は、市の地場産業である水産加工業と浅海漁業の両立をはかるため、国・県並びに関係業者と協議を重ねた結果、公害防止事業団が四十三年五月八日、市の要請を受け、第一次計画として原魚の一次処理工場、スリミ工場、保蔵庫、化成工場を中心とする水産加工共同利用施設の建設に着手、同年十一月二十五日、工事費五億八千百万円(うち四億七千六百六十万円事業団工事分、残額団地組合補足施工分)をもって完成した。

完成と同時に施設は塩釜市に譲渡され(工事費は一年間据置、二十年間の元利償還)、塩釜市はこれを前年結成された塩釜市団地水産加工業協同組合(組合員二百六十四人と加工業者のほとんどが加入)に賃貸し、四十四年一月操業にはいったが、当時わが国ではじめての水産加工共同利用施設として全国からの見学者でにぎわった。

しかるに操業開始後、施設の中枢ともいうべき活性汚泥処理方式による浄化装置が全く機能化しないことが判明した。このため事業団は応急対策としてラグーン(溜め池)を設置し、排水を一時ラグーンに貯溜し、これを酸化させてベト(残さい)を除去して澄水を放流する措置を講ずる一方、四十五年二月問題解決をはかるため塩釜市水産加工団地排水処理基本構想検討委員会を組織し、委員を学者グループ、関係省庁の指導官、事業団、国・県・市並びに組合から委嘱し、約一か年にわたって採水検査をつづけるとともに、ロータリー式油水分離機の設置、ラグーンの改善等を実施した。

しかし、こうした努力にもかかわらず、四十七年三月に至って既設の排水処理施設では機能化しないものと断定され、施設の一部はテストプラントに転用され、化成工場は四十六年十二月宮城漁糧株式会社に、スリミ工場と冷凍庫は四十九年六月塩釜中央水産加工業協同組合に、一次処理工場は団地水産加工業協同組合一次処理施設利用者協議会にそれぞれ市が公害防止事業団に負っている債務と同額で譲渡され、先駆者としての悲運の幕を閉じた。

機能不全の最大の原因は、当初の設計に先立って公害防止事業団が、塩釜市内の水産加工場から採水した排水の平均数値がBDO2,300ppmであったため、浄化施設もまたこれを基準に設計されたこと。ところが実際に操業後の検査では一次処理の排水がBDO15,000~20,000ppm、魚肉スリ身工場の排水はBDO3,500ppm、総合排水で10,000ppmという高濃度の汚染であることがわかり、元来、し尿処理等に採用されている活性汚泥装置(BDO2,000ppmが限度とされている)だけでは、機能化しないのは当然の帰結だったのである。

水産加工排水処理技術が全国的にも未開発だった当時、こうした失敗も一面では決してムダではなかった。国、県、市をあげて水産加工場の排水処理技術を開発しようという機運が高まったのである。

前述のように四十五年には官民あげての塩釜市水産加工団地基本構想検討委員会が生まれ、四十六年には「特別研究促進調整費による水質汚濁防止のための水産加工排水の処理技術およびたん白質回収技術に関する特別研究」が市水産加工団地を対象として科学技術庁から宮城県に委託された。

こうした一連の研究結果にもとづき同年六月には塩釜水産加工団地排水処理施設建設実施委員会が発足して第二次加工団地内にテストプラントの建設に着工、翌四十七年三月、総事業費二億八百七十七万円で完成した。

テストプラントの排水浄化施設は共同排水処理施設とは違って、原魚の第一次処理やスリ身製造工程から生ずる排水は、いったん排水貯留そうに入れ、高分子凝集剤を加えて汚水中のたん白質分を分離し易いようにして加圧浮上そうに圧送する。そして処理水と魚肉等のフロスとに分け、処理水は二段曝気方式の活性汚泥装置によってBDO100ppm以下にして放流、フロスは加圧浮上装置と連動するフロス処理装置によって80%以上の油脂分を回収、残った含有たん白からはソリブル製品、ミール製品等をつくってランニング・コストにのせようとするものであった。

発足当時、一日の処理能力は千立方メートルであったが、テストプラントは極めて良好に機能化し、市では四十九年には工事費一億一千八百万円で一日三千立方メートルの施設を、五十年には二千立方メートルの施設と余剰汚泥脱水施設、原排水貯溜そう等を工事費三億九百五十万円でつくり現在一日の処理能力六千立方メートル、加工団地の排水処理センターとして重大な役目を果たしている。

市ではまた第一次計画の共同公害防止施設の建設と並んで、第二次計画として、市内の住宅地や商店街に散在する二百六十あまりの水産加工業者を一か所に移転集中する団地計画をたて、昭和四十二年以来事業をすすめていた。

計画は、総面積十一万四千二百十二平方メートルの用地内に、三千四百四十六平方メートルの区画道路と、浄化そう用地(排水処理センター)一万三千七百十一・一九平方メートルを除き、残り九万七千五十四・八一平方メートルを四十七年度から四十九年度までの三か年計画でネリ業者六十一、一般加工七十七、缶詰・冷凍業者六、合わせて百四十四業者に分割譲渡しようとするものであった。県からの用地買い入れ、区画道路工事、管工事等、第二次団地のための費用は総額八億四千三百五十万円であった。

用地の配分は四十七年度中に終わり、この間オイルショック、インフレ不況、二百カイリ問題と幾多の経済変動はあったものの、現在すでに約百工場が移転操業を開始している。

かくて本市の加工団地は、当初多少の試行錯誤はあったものの、いまや市の経済をささえる大きな原動力として活発な活動をつづけ、公害防止、地場産業の発展という所期の目的を達成しつつあるといえよう。

二、魚市場岸壁の拡幅など

昭和四十年新魚市場の開場当時、入港漁船の主流は三十トンから百トン未満の小型船だった。しかし、四十年後半期にはいると、北洋操業の遠洋底引き船や遠洋カツオマグロ船のほとんどは二百トンから五百トンと大型化してきた。

本市魚市場の水揚げ岸壁は、西側、中央、東側合わせて五百八十七メートル、このうち三百トンから五百トンクラスの漁船が入港できるのは、水深六メートルの中央岸壁と東側の一部合わせて百八十メートルだけ、同時に接岸水揚げできるのは三隻が限度だった。水揚げ岸壁の水深もまた、三メートル、四・五メートル、六メートルとまちまちだった。

このため県では四十八年度からの第五次漁港整備事業として、西側から東側までの岸壁を十メートル~二十二メートルにわたって拡幅した。この結果、岸壁の延長は五百八十七メートルから六百十五・五メートルと拡張し、水揚げ処理場も五千二百平方メートルも広くなり、一万四千八百平方メートルとなって魚市場機能が倍加した。工事は五十二年三月完成した。

同時に市では五十一年度水産物流通加工センター形成事業のなかで、この拡幅された岸壁の一部に上屋三千八百平方メートルを工費一億五千五百万円で増設、施設の充実をはかった。

また魚市場ではサカナの解体や洗浄に一日数百トンの水を使用するが、使用後の水はBOD600ppmから1,000ppmと、かなりの濃度で汚染されている。従来これら汚水は海水でうすめて放流口から湾内に放流していたが、この洗浄汚水を加工団地の排水処理センターに送る施設も五十二年にできた。魚市場から団地までの導水管千七百メートルのほか、固形物を分離する固型分離器、送水ポンプ、流量計など、合わせて工事費約七千万円だった。

また市では、加工団地の建設と相まって、昭和四十八年三月十五日、魚市場の入り口の新浜町に新浜浄水場の建設に着手し、四十九年一月十五日、総工費三億四千七百六十二万円(うち市施工分二億五千万円、公害防止事業団施工分九千七百六十二万円)をもって完成した。

同浄水場は、大量の水を使用する加工団地のため、塩釜市団地水産加工業協同組合が県の工業用水道から受水する一日二万立方メートルの水を、水道法の規定に準じて(工業用水を食品の洗浄、製造加工に使用する場合は、食品衛生法に定める要件を満たさなければならない)飲料適に浄化しようとするもので、当初の能力は一日一万立方メートル、のち五十二年、工費一億九千五百万円で配水池、急速ろ過池、ポンプ室などを追加施工、一日の処理能力は二万立方メートルとなった。

昭和四十年の新魚市場開場以来、そのまま放置されていた旧魚市場の水揚げ岸壁は、第五次漁港整備事業によって、四十九、五十年度にわたって九メートルの拡幅工事が施工され、前面も水深四・五メートルにしゅんせつされた。この結果水揚げ岸壁は延長二百八十五メートルとなり、二、三百トン級なら同時に約二十隻の接岸が可能、漁船の仕込みや休けいのための係船岸壁として再生した。

三、二百カイリ旋風

昭和五十一年わが国を襲った二百カイリ旋風は、とくに北洋漁業を主流とする塩釜港を直撃した。当時市の水産農業課は、アメリカの二百カイリ漁業専管区域が実施されれば、本市魚市場の水揚げは数量で11%、金額で22%、ソ連が実施すれば数量で87%、金額で68%が消滅し、五十年中の総水揚げ高十二万五千トン、二百六十六億から推定すると塩釜港の水揚げは年間二万二千トン、九十四億円しかなくなると発表した。

また年間十三万トン、四百億円近くの水産加工品も、原魚のスケソウが皆無となり、年間一万八千七百トン、七十一億六千万円しかなくなると推定した。

いわば本市の基幹産業である漁業、水産加工業が壊滅的な打撃を受けるものとされ、五十二年二月には二百カイリ危機突破市民大会が開かれるなど、市は騒然たる空気に包まれた。

しかし二百カイリの漁業専管区域設定はもはや世界的な大勢だった。五十二年にはソ連、アメリカが相次いで実施し、世界のほとんどの国が二百カイリ専管区域に同調した。

こうしたなかで本市は、市、業界あげてその対策に腐心し、緊急融資枠の拡大、北転船の自主規制など数々の努力によって、一応二百カイリの影響を最小限にくいとめた。しかし二百カイリをはじめ、漁場、漁獲量の国際的規制はその後もますます強化され、ひとり塩釜ばかりでなく、これからの漁業のあり方をどうするか―、国全体の問題としてとりあげられつつある。

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