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第五編 魚市場余話

印刷用ページを表示する 更新日:2019年12月2日更新

本文

小原 久也 稿

以上魚市場開設前後から約五十年の歩みを略述したが、早急の間にこれをまとめることができたのは、市の資料のほか、昭和四十二年に塩釜商工会議所から発行された小原久也氏の「塩釜魚市場四十年の歩み」を多分に参考にさせていただいたからにほかならない。

小原氏は山形県の生まれ、大正八年十八才のとき、当時塩釜におられた実父茂木英之助氏のもとにこられ、同年、当時東北水産界に活躍していた白石商会に入社、のち、当時仲忠商店の支配人であられた小原平助家の一員として迎えられた。

氏は同商会に勤務されること約十年、昭和四年魚市場開設に伴い、塩釜魚市場株式会社社長横田善兵衛氏、仲忠商店店主鈴木忠助氏らにその才能を見込まれ、白石商会から同社に迎えられた。以来約四十年、氏は総務部長、資材部長あるいは常務取締役として戦前、戦中、戦後の混乱期に遺憾なくその才能を発揮され、今日の塩釜魚市場を築きあげられた。

氏はまた四十三年、全国ではじめての共同公害防止施設、加工団地の完成に伴い、塩釜市団地水産加工業協同組合の専務理事に迎えられたが、前述のとおり、当初の加工団地の浄化装置がその機能を発揮しないため、氏はその対策に苦慮、自ら国会におもむきその実情を説明するなど東奔西走、ようやくテストプラントの建設を見るに至り、現在一日六千立方メートルの排水処理センターができたのも、ひとえに氏の努力によるものといえよう。

氏はまた漢字の素養深く、抜群の記憶力に恵まれ、前掲「塩釜魚市場四十年の歩み」のほか、四十六年には「水産塩釜の歩み」を同じく会議所から発行され、いま大著「塩釜魚市場誌」の編さんに努力されている。同書は約三十項目に分かれ、すでに二十数項目の執筆を終えられている。氏が五十年にわたる魚市場生活のなかで、ご自身が手がけられた数々の秘話なども豊富に盛られており、本来ならば本書の刊行こそ五十周年記念事業にふさわしいものであった。

しかし原稿が未完なうえ、その他の都合によって誠に不本意ではあるが、今回は完成された原稿中、十項目を余話として収録させていただくことにした。ここに深く小原氏にお詫び申し上げ、一日も早い全編の脱稿とご刊行を期待する次第である。

一、水産物輸送手段の今昔

塩釜に水揚げされた鮮魚はどのようにして仙台方面へ運搬されたか―人間自身の体を使用した時代、即ち手で持って運ぶこと、頭や肩を利用するなど人間自身の運搬機能を利用したことに始まり、時代の進運にしたがい技術的に進歩していった。即ち、岡持ち、肩擔振り(ぼふてり)から始まり、馬を使った駄送時代、更に人馬協同して運搬機能を発揮した車力時代、文明開花と社会資本の充実によって現われた鉄道輸送時代と変遷し、更に海上を利用した冷蔵運搬船、また、敏速、正確、利便を期する運送技術の飛躍的発展によって出現した貨物自動車時代に大別される。更にまた、近年航空便の発達により、季節的高級魚が活魚で航空機により大都市に輸送されることも珍しいことではない。これを、塩釜、仙台を中心とした地方において行われ、かつ、発展を遂げた過程と、これ等の運搬機能が地方経済に寄与した状態を簡単に記述して見たい。

(1)岡持ち

これは季節によって違うが、めじマグロ、カツオ、目ぬけ、かれい類を地方の主婦が地区内の家庭に小売りするため用いた手提げ箱で、商品と包丁、小型の棒秤(はかり)を入れて各家庭を回ったものである。江戸で昔から用いられた天秤棒でになった威勢のよい盤台売りに似通うもので、明治、大正、昭和の初頭まで続いている。

この商売で一人前の魚商人となり、魚市場の認定仲買人になった寡婦も何人かいる。

(2)肩擔振り(ぼふてり)

運搬手段としては、岡持ちと同質のものであるが、岡持ちは手に提げて地区内の家庭を主体として売り歩くものに用いられたが、この肩憺振りは、竹製のふた付籠で前後二つを天秤棒で肩に担いで、比較的遠距離のところ(例えば塩釜→仙台、又は郡部近郷まで)への運搬に用いられた。

仙台肴町までの運搬経路は、赤坂旧街道から奏社の宮、市川、岩切、今市、案内を経て肴町に至るもので、時代によりまれには人力により運搬されたが、鉄道が塩釜より仙台まで開通されてからは、毎朝定時に貨客混載貨車が運行されたので、それに積込み、荷擔い手だけが客車で仙台駅に乗りつけ、仙台貨物駅で荷を受取り、肴町の朝売りに間に合わせるか、仙台市内の特定の店に荷卸ししたものである。

(3)駄送時代(だんこ馬)

駄馬の背に振り分けにして、両側に各々六十キロ程度(米一俵相当)ずつ積んだので、一頭の駄馬の運搬は大体百二十キロが限度であった。塩釜から仙台までの運搬経路は肩擔振りと同様で今でいう旧街道であった。

魚類の中で、すずき、ぶり、ぼら等が昔から出世魚と称せられ、その成育度に従い呼称が変わっている。しかし、鮪(しび)についても、その成育度に従って呼称が変わっていくが、これは駄馬の積載量からきた呼称であると聞いている。即ち三キロから五キロのものは、ごんた鮪(しび)(正しくは五駄という)と称され、十キロ程度のものは十付、十五キロ内外のものは八ツ、二十キロのものは六ツと呼称され、それ以上のものは中マ、大マと称された。この成育度に従い、六ツ、八ツ、十付と称されたのは、馬の背に積む場合、六ツは三尾ずつ六尾、八ツは四尾ずつで八尾、十付は五尾ずつで十尾を振分けにして積んだこところからこの呼称が生まれ、又、五駄(ごんだ)については、百尾を五頭の馬に積んだところから生まれた呼称と聞いている。

(4)車力時代

運搬方法が駄馬の時代から人馬協同して運搬機能を発揮した車力時代にうつる。

明治末期から大正時代には、仙台肴町への鮮魚輸送は荷馬車で行なわれた。当時の情況について先年、昔車力運送店を経営していた亀山さんを、仙石線本塩釜駅前のお宅に尋ねしてみた。先代運治さんの未亡人くまさん(今年八十九歳で物故)は矍鑠(かくしゃく)として当時をなつかしく回顧するように、筆者に次のように語ってくれた。

「旧問屋時代の魚の取引は、漁船が入港すると夕方でも夜中でも水揚げ販売されたもので、仲買人はそれを馬車積にして仙台肴町に出荷したものだった。当時の馬車運送店は私どもと、千葉力、佐々木勘三の三軒で、各店とも荷主から馬車の注文があると、出入りの馬車に連絡して翌日の朝売りに間に合うよう準備したもので、それはそれはいそがしい商売であった。町内には沢山の馬車やさんがあったが、杉の下の菅原さん(市議菅原徳夫さんの先々代)の馬が力の強い立派な馬で、塩一と称されたものであった。荷がたて込んで荷馬車が間に合わない場合は、荷車を二人で曳いて仙台送りをしたものである。それについて、面白い話がある。この荷車を曳いて仙台街道を上る途中、曳き子が市川あたりで眠気をさしたので、土手の上でまどろんでいる間に、荷車に積んだ鮪の背筋が目茶苦茶に喰い荒らされていたので、悪い狐の仕業だと噂されたことがあった。馬車は岩切村が中間地点にあたるので、この辺で馬に休息を与え一服したものである。この休憩所が『おじゅん茶屋』で、最近まで飲食店を営んでいたと聞いている。」

それで筆者は、岩切に昔の「おじゅん茶屋」を訪れた。現在の今野屋呉服店本店の筋向いである。

当主の鎌田喜芳さん夫妻にいろいろ昔話しを聞いてみた。

この茶屋の開業した年代は詳かでないが、おじゅん茶屋の由来は先代鎌田丑治郎さんの妻女おじゅんの名をとったものだそうだから、明治二十年代と想像される。

茶屋は、荷馬車で仙台肴町送りがあった時代に休息の場所として利用されたもので、最近まで軒下に馬の手綱(たづな)をつないだ環金(かんかね)があり、又、店内には踏み込み爐もあったが、昭和四十八年に改造したので昔の面影は残っていないが、馬子さん達が往きにも帰りにも一息ついて一杯呑んだ一杯徳利が一本残されていた。一杯とは二合五勺のことで二合五勺入りの大徳利である。馬子さん達が一杯呑んでいる間に、馬に力をつけるため近所の後藤豆腐屋(仙台江陽会館後藤紅陽氏の生家)で豆の煮汁を呑ませ、又は、おからを喰べさせたりし、加瀬沼で冬囲った天然氷を砕いて積荷に差し氷をして肴町に向け出発した。いわば宿場の中宿の役割を果たした茶屋である。

(5)鉄道時代

明治二十年十二月、日本鉄道(株)により、塩釜―仙台間、更に今日の東北本線が開通する過程において、塩釜には通代理店、運代理店の外、陸海連帯輸送の(株)白石商会等が運送業を開始し、その後も営業を開始する者が発生したが、大正八年鉄道省が運送業界の刷新を図るため、公認運送取扱人制を採用してからの塩釜における運送業界の事情を記述したいと思う。

大正八年、鉄道省告示に従い全国既存の運送店は公認をうけたが、塩釜における業者も又公認をうけ、次いで、鉄道省公認塩釜駅運送取扱人組合(組合長小野彦左衛門さん)が組織され、これが大正末期まで存続して業者の親睦と統制をはかる機関となった。

大正十五年六月に鉄道省が突如として、小企業者の改善と合理化を図るため、運送業者の合同に関する声明を発表して、半ば強制的にこれを奨励指導した。

これが一駅一店主義の改革である。そのため全国の運送業者が合併し、続々駅毎に合同会社が生まれた。塩釜でも昭和二年三月、長年にわたり営々として築いた自家営業に終止符をうち、営業の一切を挙げて現物出資となし、資本金六十万円の塩釜合同輸送株式会社が設立された。これが現在の塩釜港運送株式会社の前身である。

この合同会社の設立に参加した業者は、つぎのとおりであるが、現在はいずれも故人となられた。

  • 小野彦回漕店 小野 彦左エ門(社長)
  • 三陸運送店 佐藤 えな治郎  (常務)
  • 青島運送店 青島 武郎 (常務)
  • 海陸運送店 佐藤 玉吉 (取締役)
  • 三共運送店 杉船 総之助  (同)
  • 味戸運送店 味戸 忠吉 (取締役)
  • 大石運送店 佐藤 健吉 (同)
  • 山口運送部 鈴木 幸一 (同)
  • (株)白石商会陸送部 白石 広造(監査役)
  • 笠間運送店 清水 重吉 (同)
  • 丸一運送店 及川 兵吉 (同)
  • 丸福運送店 鈴木音吉 (同)
  • 木運送店 斉藤
  • 塩釜倉庫(株)運送部 菊地 平吉

合同前の各運送店の取扱貨物はそれぞれ特色があり、鮮魚、雑貨、木炭原木類などの分野に分かれていたが、合同会社の運営は順調な経過をもって推移したようであった。

塩釜合同運送株式会社は昭和十三年、株式会社塩釜通運と改称され、昭和十七年には日本通運株式会社に統合され同社の塩釜支店となったが、その後間もなく国家総動員法に基づく港湾運送事業統制令の発令により、一港一社を原則とする港湾運送会社が設立されることになり、塩釜においても、昭和十八年十二月前記の日本通運株式会社塩釜支店が主体となり、現在の塩釜港運送株式会社の誕生を見たのである。

前記の塩釜合同運送株式会社と時を同じくして、従来各公認運送店に従属して現場作業を担当し、親方制を採っていた労務班を全部統合して株式会社塩釜仲仕組を設立し、従来区々まちまちであった一般作業と賃金体系を一本化し、業界改革の目的に副って労働条件の改善を行なっている。

以上、本市鉄道公認運送店の変遷について若干述べてきたが、この業者が企業統合前、即ち、個人営業時代に水産物出荷業者と密接な関係にあったので、水産物流通を通して水産界に寄与した業績は極めて大きいものがあり、二、三の事柄を記述する。

大正時代の鉄道運送取扱人は積極的に集荷につとめ、荷主獲得のため激しく競争をしたものである。そのため地廻りに鮮魚出荷業者を得意先にもつ運送店は「荷取り」と称する従業員を常傭し荷主サービスにつとめた。この荷取りの仕事は今日の仕事でいえば差し詰めセールスマンであった。その職務は得意先の出荷物について一切の世話をするのを本分とするが、それが荷主神様の時代であるから、庭掃き、用達しから、冬ともなれば早朝雪掃きまで奉仕する出入りの御用聞きであり、今日では想像もつかぬサービス過剰の時代であった。

更にこれも得意先争奪の弊につながる事柄であるが、出荷主(鮮魚、加工品とも)に対し融資を行なっている。これは荷主が営業資金即ち原魚代金の決済資金の捻出のため一時出荷委託運送店から融資をうける慣習があった。そのためどの運送店も大なり小なり荷主方面への融資が存在し、その額は、仲買人が毎年魚問屋に対する買掛金の皆済をする四月、九月がピーク時で、運送店一店当り二~三万円から十万円位あったといわれ、当時における金額としては、馬鹿にならない大金であった。

この融資についての条件とか契約は簡単なもので、借主の荷主(仲買人)が出荷するものを確保して荷扱いする事が目的で、その返済方法は出荷物に対し、荷姿により一個あたり五銭から十銭位迄の立替附帯金を付け、これを取扱運送店が先払運賃の中で、預り金として積立て、その額がまとまると借入金返済に充当し、借入金が減額すると、またまた借入れするという反復性の慣行であった。

この融資制度は荷主の営業が順調な時はよいが、一旦不振に陥った時は、回収不能となり運送店の欠損となった。このような融資制は当時仲買人の経済的地位が低く(皆々ではないが一般に)金融機関の信用を得るに至らなかったことに起因したものであり、当時の運送業者が自己の営業政策上採った手段であったにせよ、地方の仲買人の業務運営に資し、その育成により地方産業に寄与した功績は決して見落してはならない一例であり高く評価されてもよいものと思う。

この貸付先は地廻りだけに限らず、三陸沿岸一帯にある荷主に対しても行われ、海陸連帯の仲継貨物の集荷につとめたものである。

鮮魚出荷の鉄道輸送への依存度が高くなったのは、漁業生産手段が大規模となり、各種魚類が大漁を見るに至ってからである。筆者の記憶では大正十二年の秋に(関東大震災の年)三陸沿岸でイカの大漁があり、毎日運搬船で仲継貨物として水揚げされ、一日百車位の発送が十日ばかり続いたことがある。また、築港に公設市場開設後昭和十年頃から、いわし揚操網漁業の大漁年次を迎え、食糧としての鮮魚以外に塩蔵又はガラ干の出荷、または養魚飼料として静岡、愛知県下への出荷および棒受網漁業の飼料として、生出荷が旺盛で貨車の争奪戦が行なわれ、昭和十六年秋には毎日いわし揚操網漁業の大漁が続き、一日百車以上の輸送があった。また、戦後昭和二十三年、四年には秋刀魚棒受網漁業による秋刀魚の大漁で、鮮魚、丸干、塩蔵もの等の貨車積出荷が盛んに行なわれた。更に、カツオマグロ旋網漁業が大型化し大漁の時は一日数千本のマグロが水揚げしたこともあり、貨車の争奪戦がし烈になったので、出荷業者は毎日の如く仙台鉄道局に貨車の増配を陳情し、業者もまた自粛調整をはかるため、鮮魚配車協議会を設立し、これが県主要漁港の共通の問題でもあったので、大平義見さん等が主唱して宮城県水産物配車協議会を設立して、仙鉄および盛鉄に対し貨車の増配と六大都市への着時間を調整したダイヤ編成と貨物列車の増発を陳情し効果を収めている。

この配車協議会は、時代の趨勢により、貨物自動車輸送の増強と漁業生産状況の変化により鉄道貨物依存度が低くなり、昭和三十九年に発展的解散をなし、新たに宮城県水産物流通対策協議会が発足し、大日本水産会などと密接な関係を保ち巾広い流通対策に取組んでいる。

(6)冷蔵運搬船

塩釜における冷蔵運搬船の嚆矢は、〈ヨ上総芳太郎さんが運航した〈ヨ丸である。

同船は木造二十トン未満の小型船であったと記憶する。その行動範囲は大正末期から昭和初頭にかけて、三陸沿岸各港と塩釜間であった。

次に昭和初年に当地海産商界の鬼才といわれた鈴木利三郎さんも冷蔵運搬船を建造し、北海道商域の開拓を意図したが初航海に陸奥湾で座礁遭難し、雄図が挫折している。

昭和二十二年に大平義見さんが二隻の冷蔵運搬船を新造し、北海道市場を開拓し、海草類、生いか、助宗たら等を塩釜に積送し市場を潤したが、朝鮮動乱の際米国極東軍の懇望によりこれを譲渡している。

  • 第一太平丸 鋼船八十三トン
  • 第三太平丸 鋼船八十三トン

また、柴福松さんと宮下新太郎さんが共同し、福宮丸を建造して、塩釜、北海道間を就航している。この外、他県籍船で、北拓丸、東洋丸(東京伊勢常商店所有)、勢宝丸(東京勢宝水産所有)等が、塩釜を根拠として北海道より水産物を積送し、本市魚市場の繁栄に寄与した。

(7)貨物自動車時代

本市における自家用貨物自動車経営の創始者は上総芳太郎、大平義見、今野清助の諸氏で、県下各地域を商域として輸送販売し、または福島県中通り地域や若松地方への出荷の用に供し活躍したものである。その後若干の変遷はあったが、昭和四年築港に公設市場ができて、入場許可を申請したものは八台位であり、また、昭和十三年単一市場となった頃魚市場に入場した台数は十六台という稀少時代であった。

その後、自家用貨物自動車が増加し専ら運賃取りを目的とするものが大半を占めていたが、日支事変の深刻化により燃料油が配給制となり、また、一部は木炭車に切替える状態にあった。国もまた、臨戦体制の下で企業の整備合同を指導されたので、昭和十三年十一月に塩釜合同自動車運送株式会社が設立され、同社の傘下に加わった自家用貨物自動車は二十三台であり、社長に佐浦桂太郎さんが就任した。この合同会社は支那事変より大東亜戦争に際会し、燃料油の厳しい規則をうけ、充分な稼動ができず、業績不振のまま解散した。

昭和二十三年頃、山形第一貨物自動車株式会社が塩釜に営業所を開設し、鮮魚と水産加工品の集荷配送活動を開始して逐次東京定期路線及び若松路線等の許可をうけ本市における貨物自動車運送業のトップを占めるに至った。

その後、貨物自動車運送会社が相続いで設立され、殊に冷凍品など水産性貨物の多様化に伴い、保冷車が出現し、営業車及び自家用車も増加し隔世の感がある。

二、船宿の濫觴(らんしょう)とその機能

藩政時代、塩釜の五十集四分問屋は、入津漁船が本吉、気仙というような遠方から来た時は、船頭、水夫の宿泊、帰路の賄物資の補給など船宿としての仕事を行なわなければならなかったであろうから、この方面からの収入もあったと考えられる。とくに藩政後期に入り、南部や松前からの海産物が入荷するようになると、五十集物を積んだ船が入津するので、その売捌方や役代取立てについて四分問屋から藩に手続きを問い合せた慶応元年九月の文書があり、事実慶応四年の年号の入った「宮城郡於塩釜松前産物散在四分御役金召上上納本帳」なる文書によると、秋味七千百六十八本が松前から入荷している。

又、年代は明らかでないが「南部秋味勘定帳」「秋味仕切金受取」などの文書も残っているから、南部や松前から塩鮭が塩釜に荷揚げされていたことが疑いない。したがって五十集四分問屋も幕末になると正式に諸廻船問屋と四分問屋を兼業していたのである。たとえば、明治二年十一月四分問屋六人が連名で塩釜町の船着河岸に「五十集魚類売捌之せり場」を設けたいと肝入検断に申出た願書に「五十集問屋并諸廻船問屋」と各自が公称しているから、恐らく藩政時代に藩から諸廻船問屋なる営業を公許されていたのであろう。

しかし、このような職業がいつころから藩の許可営業になったか、許可をうけるについては、どのような条件が付随していたか、こうした内容については遺憾ながら今日明らかになっていない。嘉永四年九月付の丹野家文書には「其身事船宿ニ候気仙唐丹村直乗船頭三十郎」とあり、文久三年の文書にも、塩釜町舟宿六之助と自書しているが、嘉永六年の文書には塩釜廻船問屋六之助と自記し「拙者義塩釜町諸廻船問屋ニ而去冬十二月廿四日南部五大力船頭市松兼而宿仕候処」と述べている。

また元治元年八月十二日付文書にも「塩釜町諸廻船問屋六之助」と述べてあるから、舟宿と諸廻船問屋とは、ここでは同じ意味に使われていると見てよい。そう考えると塩釜の四分問屋が廻船問屋を兼ね始めたのは嘉永年間以前からということになるであろう。

このように、藩政時代に公許の廻船問屋があって、その仕事は外来船の積荷の売捌方や藩への手続、役賦の取立ての外、船主および乗組員の世話や賄物資の調達など、五十集四分問屋本来の仕事と分化されており、四分問屋としての収入のほか廻船問屋としての収入があったと記録されている。

しかし、明治時代になってこのような営業が存在したかどうかについては、記録もなく、古老のいい伝えもないので知る由もないが、大正の半ば頃から静岡県より初めてカツオ船の回来があり(第一船は伊豆伊東の清正丸=海産物問屋仲忠商店扱)相次いで焼津、御前崎、さらに三重県下、高知県下から金華山漁場のカツオ漁を目指して出漁し、年を追って激増したので、塩釜はカツオ漁船の根拠地となった。これ等の漁船の出漁条件で一番大切なことは、釣餌の活いわしの獲得であった。

活いわしの生産は萩の浜湾や女川湾の各浜で獲れたものを、生け簀で蓄養したもので、船主は餌買いという出張員を現地に派遣するか、塩釜に常駐せしめて、その確保につとめたもので、その出張員は海産物問屋を宿としたので、委託問屋は部屋を提供して三度の食事まで世話をしたものであった。又、漁船員に傷病者がでた場合も宿を提供したり、入船の都度漁撈物資の仕込みをしたりして本来の委託販売業務より手数がかかったものであるが、これに関する費用は凡て委託販売手数料の中で処弁して、一切船主に請求しないのが一般であった。したがって、このように海産物問屋と廻船問屋(船宿)は兼業して未分化の状態で、統一卸売市場時代を迎えたのである。

昭和十三年三月三十一日、当時の海産物問屋十七軒は、その営業権を集約単一化して株式会社塩釜魚市場を設立し、歴史的には藩政時代から明治、大正、昭和十年代にわたる問屋制流通時代に別れを告げ、卸売市場流通時代に入ったのである。

株式会社塩釜魚市場は同年五月一日から営業を開始しているが、営業方針の大綱を決定するに当たって、漁船誘致を効果的に機能発揮するためには、海産物問屋が従来その営業の中で担当して来た船宿業務を、会社営業の実体に関与しない形で存置してはどうかという方針が提起された。この方針については、一部役員から被合同問屋はその営業権の報償をうけ単一合同会社を組成したもので、いわば「大政奉還」をしたのだから、これを今更営業政策の一環として機構の中に存置することは、論理的に矛盾があるということで反対があったが、種々熟議の上、単一卸売会社の発足は画期的なもので、初期には商業活動が無機的に陥りやすく、旧来親近感をもって縁由を保ってきた荷主が離反して、漁船誘致に支障を生ずることがあっては、塩釜魚市場の発展は望み得ないという意見が大勢をしめ、これを次のような要領で、船宿として存置することに決定したのである。

  • 被合同問屋十七軒の内、実質的活動をしている十三軒を魚市場会社が船宿として承認する。
  • 船宿は卸売業務の実体に触れるような商業的活動はしないこと。
  • 船宿の手数料として、魚市場会社が収受する販売手数料から二歩を交付し、船宿は何等の名義を以てするも荷主から金銭の収受をしないこと。

以上の要旨に基づいて、船宿は魚市場会社に誓約書を入れている。

株式会社塩釜魚市場で採用したこの船宿制度は効果的に機能し、塩釜魚市場の繁栄に寄与し、昭和二十年宮城県水産業会が魚市場を経営するに至る迄存続したが、同水産業会は前経営者が船宿との間に約束した手数料交付制度を破棄したので、船宿は無力化し一時その業務を中絶した。

しかるに、当時は諸物資は払底し、かつ経済統制が強化されたので漁撈物資の入手が困難をきわめ、漁業界は困窮の一途にあった時代である。地元の水産加工業者等が漁業生産に必要な物資を調達して、これを漁業者にあっせんし、または資金の融通等漁業手段に協力することにより、漁獲物の処理に発言力を強めようとする目的で、船宿営業を営むものが続出し、一時三十軒の多きを数えるに至った。

その後水産物の統制が撤廃され、魚市場が自由取引本然の姿に復帰し、又、生産資本の充実により発達した漁業は、水産物流通経費の合理化のため、卸売市場の販売手数料の引下げを要求し、更に生産地魚市場の船宿の存在についても批判的になり、無用論を唱える向きも生じた。

また、魚市場関係業者間にも船宿の無用論や船宿手数料の二歩は流通経費に占めるシェアが高いので、漁船誘致をはかるためには料率を下げ、または経営合理化のため企業合同してはどうかなどど物議騒然となったが、船宿業者の大半は、船宿は自由営業でありその利用価値は漁業生産者が直接選択するものだから、今にわかに改革を行なう必要はないとの自覚を強め、積極かつ誠実に業務に努力した結果、今では魚市場機構に定着し機能を充分に発揮している。

その後船宿業務は、業務の刷新と向上を目的として、中企法により塩釜市魚市場廻船問屋協同組合を組織し、営業の強化をはかっている。

三、旧問屋時代の取引代金決済方法

統一卸売市場の出現によって取引代金の支払方法は、売渡伝票の即日交付、又は、為替手形引受方法により所定の期日に支払を完了にする制度が確立され、それが円滑に運営されているが、問屋営業時代の取引代金決済方法は、昭和二年一月制定の塩釜海産物問屋組合規約によると、「本組合ノ取引ハ凡テ現金トス、但シ、認定仲買人ニ限リ通帳ヲ以テ掛売取引ヲナシ、尚第七条ノ歩戻ヲナスモノトス(第十条)」とあり、原則として現金取引であった。

当時認定仲買人は八十三名あり、これらに対する取引は通帳をもって掛売をなし、各問屋の店員が毎日集金に仲買人宅を巡回したものである。その集金は夕方より夜半にかけて各問屋名入り提灯を下げて、しかも、店員は二人一組で、決して一人行動は許されなかったので、今日の世相からみると、風物詩的な風景であった。このアベック集金は不正行為防止の内部けん制の効果をねらった商売が生んだ知恵と考えられる。

元来、五十集屋の取引はルーズにおちいり易く、また、派手な商売であるから店員にも遊興にふけるなどの不心得者も生ずるので、内部的けん制により、これを防止したものと思う。このように解釈するのは、真面目な定員をぼうとくすることとなるが、こうした例が多数あったことは事実である。

また、認定仲買人に対する取引代金は通帳による掛売りをした所謂延勘定であったが、一定期間中の取引代金精算のため、年三回の完済日(又は皆済日)を設けて整理することを組合規約で定めていた。即ち本組合ハ仲買人トノ間ノ取引完済ヲ毎年一月、四月及ビ九月ノ三期ト定ム、但シ未済者ニ対シテハ組合売止メヲ決行シ之ガ整理ヲナスモノトス(第十二条)

これは所定の月の月末現在で帳締めをなし、その残高を翌月五日に完済する方法で、その完済の日に未済者があった場合は、組合長は期日を定めて組合に申告し、組合総会を開いて協議の上その未済者に対し完済に至るまでの間、問屋組合員連合して売止めを決行する罰則を適用した。

このように、完済制度はきびしいものがあったが、一面欠陥と弊害を伴なっていた。仮に、ある問屋が特定の仲買人を情実的に、あるいは商略的に必要以上に贔屓(ひいき)にし、期日に多額の売掛残高が存在してもこれを申告せず、取引活動の延命をはかり、その仲買人がその後他店との取引でやりくりを行ない、これを未済代金の決済に充当した事例があったことは事実である。そのため、その仲買人が脱落した場合、各問屋が共通していくばくかの回収不能の売掛金を背負う結果となることもあった。

当時の問屋が同業者間で規約で約束しても、このような弊害を防止出来なかったことも旧時代の取引機構の実態であった。

四、高率手数料から低率手数料への移行

問屋制流通機構の時代は、問屋と仲買人との関係に支配従属的な関係が存在し、また、売手の漁業者にたいしても問屋は前貸しを行なうことによって従属させていた。したがって漁業者は前貸資金を受けることによって特定問屋に緊縛されているため、自由に問屋を選択することができず、前貸金を受けている問屋に漁獲物の処理を委託せざるを得なかったので、このように売り手、買い手に対する支配従属的関係は一割から一割二分という高率手数料となり、価格決定方法も非公開、不公正で、明治、大正及び昭和初頭のころは、このように問屋に恣意的な販売方法に委ねた時代といえる。

しかるに、高率手数料制はこのような事由によってのみ制度化されたものでないと思考されるので、筆者の客観的考察を加えておこう。

当時の問屋が売手である漁業者に前貸しした資金については、回収不能になったものが各問屋に相当多額のものが存在した。当時の有力な老舗に百枚以上の賃借証書が当時の取引の在り方を物語るかのように現存している。また、問屋は委託を受けた漁獲物が多量で、仲買人が全量処理できない場合は、問屋において塩蔵または加工品にして自らの手で処分する場合もあり、また、漁業投資の貸倒れも多額に上り、そのリスクも大きなものがあった。

さらに、当時の仲買人は輸送手段の不便不利と、通信機関の不備の時代で、消費地の需給状況や成行相場を把握することが困難で全くの商売勘にたよって取引をした時代で、価格変動の激しさから仲買人の地位が極めて不安定であったので、問屋はその収受する手数料の中から四分乃至二分という高率の歩戻金をその危険負担の趣意で交付したものと考えられ、今日の支払奨励金とは自ら性格の異なったもので、当時の問屋、仲買人の知恵が働いた商業的慣行と見るべきであろう。

しかるに、昭和十三年統一卸売機関制になってからも高率手数料と仲買人歩戻金制が現存したが、漁業の資本制生産の発展は漸次生産地市場を変質させ、しかも近代経済は消費地価格形成に占める流通経費の比重の高さが経済的な論点となり、農林省においても統一卸売機関の取扱手数料の低減について強力に指導し、且つこれを法制化することになったので、塩釜市も昭和二十七年三月、方針として販売手数料を取扱金額の千分の三十を指標とした。

また、仲買人歩合金については、卸売人の販売手数料低減により歩戻金制を改定し、卸売規約により買受代金の皆済者に限り交付する支払奨励金として低い料率によって支払われるように変わってきた。

仲買人の商取引については、輸送機関の不備や消費地の需給状況による価格変動の把握困難の時代が長く続いたが、今日では鉄道貨物による輸送が、迅速かつ正確を期する自動車輸送に変わり、又消費地市場の需給関係から生ずる商況も定時電話の頻度利用やファックスなどの情報機関の発達によって、正確迅速に把握出来る時代を迎えているので、商取引も投機的なものから安定取引に移行し、低率手数料時代に順応し、その業態の安定と経済的地位の向上を期するに至っている。

塩釜魚市場の取扱手数料は、昭和二十七年八月卸売機関の整備当時において、千分の三十五であったが、その後生産者団体の要望により千分の三十に引下げ、時代の要求にしたがい低率手数料時代を迎えるに至った。

その経過は次のとおりである。

昭和二十七年はサンマ棒受網漁業の大漁の年であった。サンマは肥料製造に販売され、魚価は低落して漁業生産者がその対策に腐心した年である。

その対策として考えられたことは、生産者は市内の肥料製造業者に対して肥料製造を委託し、原料のサンマを供給し、その製品は系統機関で集荷販売をして精算を建て、生産者魚価の最低額を保証し、残余があればこれを肥料製造業者に還元する方法であった。

このように、サンマ、イワシなどの大衆多獲魚が大漁をつづけ、魚価が低落して漁業経営が苦しくなると、必然的に流通機関の合理化を要請する結果が生ずる。この時も塩釜魚市場の販売手数料引下げの問題が発生している。

昭和二十八年三月ころから、全国サンマ棒受網漁業者団体および北太平洋旋網漁業調整組合から、塩釜魚市場の販売手数料現行販売高の千分の三十五であったものを千分の三十に低減方の要請があり、宮城県漁連が仲介役として協議交渉を重ねておったところ、各種漁業団体もこの要請貫徹に合流する気配を示したので、塩釜魚市場卸売人間において引下げも止むを得ないと判断するに至った。

当時宮城県下主要生産地魚市場で、千分の三十手数料実施は、気仙沼、女川の漁協系統だけで、石巻、渡波及び塩釜の三漁港は、千分の三十五の制度を採用していたので、宮城県魚市場協会(会長小松寿右衛門さん)が主催し各魚市場協議の結果、大勢已むを得ないものとし千分の三十に各魚市場一律引下げに合意するに至った。

塩釜魚市場における販売手数料引下げは、昭和二十八年十月一日から実施している。

五、仲仕制度の改革と荷役会社の設立

旧魚がし時代(問屋時代)における漁獲物の水揚げ及び入荷物の運搬作業や、仲買人の買売品の荷造り出荷処理、又は水産加工場への搬出入作業はすべて仲仕組に賃金制で請負わせて行なわれた。

この仲仕組の構成は有力な問屋、又は仲買人に信望のある者が首班となり、これを親方と呼びその下に十名乃至二十名の労務者を組員として常置し、問屋や仲買人に従属して労働力を供給する仕組みで、複数の仲仕組があった。

労賃はこれらの仲仕組と問屋、仲買人など事業主との協定に基づく料率によって請負制度になっていた。

仲仕組の収入労賃の分配は組の首班である親方が総水揚の一割を天引きし、その残額を組員の出面により割賦配分された。組員中の古参者に小頭等の役職を与え一人二分の歩取給付をしたり、組の維持費として一人分控除積立てをする定めがあった。

仲仕組には運搬機能として荷馬車を常置したり、簡単な荷役道具を常備したが、統一市場施設開設後荷馬車はリヤカーや小型自動車に代っている。この荷馬車の維持のため一日二円乃至三円を収入労賃から控除し、馬子の給料と飼葉料(かいばりょう)に充当するのが一般的であった。

昭和四年四月築港魚市場開設以降、魚市場制度に幾多の変遷があり、漸次近代化されたがこの仲仕組による労務供給の制度は旧態依然として踏襲され新浜魚市場開設時まで継続されている。

しかるに戦後高度経済成長下にあって肉体労働に従事するものが減少し、仲仕組の維持に必要な人員の確保が困難となり、殊に複数の仲仕組が存在して各々荷主を擁して、専属的にその荷主の労働力要求度に対応することは、労働力が偏在し、各組とも無駄な人員の常備を必要とするので結果的には労賃引上げの要因となり、その合理化が要請されるに至った。

又、基本的人権を建て前として、搾取のない労働条件が要求されている社会情勢の中で、このような前時代的な親方制度が存続されていることに対し、監督官庁より職業安定法又は労働基準法により急速に改善するよう勧告された。

仲仕組は合議の上、企業組合を組織し、これを主体として労働力の供給事業を実施し、組合員の厚生年金や健康保険などの法定福祉制度が適用されたが、この制度は個々の組合員が事業主であることを条件とするので運営上支障が多く、やがて廃止された。

そこで職安法による労務供給会社を組織するか、荷主の常傭として従属せしめるかの二者択一となったので、買受人組合長大平義見さん等の指導により新浜町魚市場の開場を機に、職安法第四条の規定により労務供給会社を設立することに仲仕組も荷主側も合意するに至った。この計画に対し塩釜地区機船漁業協同組合は当初から常傭制を採用し、十二名の組員を引抜き完全傭用としたので、残余の組員の大同団体を基本とし、株式会社塩釜魚市場より八十万円、買受人組合より五十万円の資本参加と実際稼動する組員百八十五名が各々二万円の平等出資をして資本金五百万円で塩釜魚市場荷役株式会社を設立し、昭和四十年十月一日業務を開始した。

その後、株式会社塩釜魚市場も定傭制を採用し、水揚作業班から二十九名を完全雇傭したので魚市場卸売業務に属する水揚作業は各々その事業主に移管され、同会社は買受人の荷造り運搬が作業の主体となり、作業機械の導入により省力化をはかり、又は小型自動車運送業の免許をうける等、漸次合理的経営の途を歩んでいる。

六、水産物配給統制時代の魚市場

前述のとおり、多年にわたる問屋資本支配時代を脱皮し、昭和十三年四月、株式会社塩釜魚市場を設立、単一卸売市場が実現したことは画期的なことであった。
この会社は、昭和十四年以降イワシ揚操網の大漁年次を迎え、かつ、支那事変によってもたらされた景気上昇の波に乗って魚価高となり、売上高も増蒿し順調な経営をもって漁港塩釜の伸展に寄与するところがあった。

しかるに、支那事変の深刻化により世情は漸く混迷の様相を呈し、昭和十三年には既に国家総動員法が発令され、これにもとづいて、広汎な統制の権限を政府が掌握して、国力を戦争遂行のため最大限に発揮できる戦時体制が布かれた。昭和十四年九月には物価統制令が公布され、生活必需品統制の一弾が放たれた。統制は当初鮮魚介類は除外されたが、昭和十五年五月には一部水産物に価格統制が加えられ、又、一般生活必需品には、昭和十四年九月十八日公布の価格停止令により所謂九・一八価格で、最高価格を抑制されている。更に、昭和十六年に物統令にもとづく農林省令により、水産物に配給統制が実現されたので、魚市場は商業的活動としての機能を失ない、水揚漁獲物はすべて農林大臣が定めた計画的な分荷配給を行う場所に変っていった。

生産地魚市場は戦時体制化にあって、生産優先の建前から、生産者団体の発言が拡大し魚市場機構に対し、商業的資本の介入を排除する傾向が生じ、鮮魚仲買業務の如きも、事実上停止せざるを得なかったので、塩釜魚市場では、昭和十五年五月、鮮魚仲買人は大同団結して塩釜鮮魚出荷三協組合を組織して、共同出荷を開始している。

この出荷組合の組織は

  • 塩釜鮮魚出荷三協組合(組合長 渡辺 源四郎)
  • 中央出荷組合 (組合長 小松 孫三郎)
  • 他地方出荷組合(組合長 大平 義見)
  • 餌料出荷組合 (組合長 津田 藤吉)

で、三協組合は三部門を統轄し、中央出荷組合は六大都市向出荷を、他地方出荷組合はその他の地方向出荷を、餌料出荷組合は棒受網漁業の餌料および養魚餌料向出荷をそれぞれ担当し、その分野で忠実に業績をあげ、一回も経済事犯(価格違反)に問われたことがなかった。

この出荷組合も水産物の統制強化により、全国主要漁港魚市場に出荷統制組合が生まれ、塩釜においても、魚市場部門に属した鮮魚介配給統制組合に吸収統合された。当時この出荷組合に属した組合員の多くは、水産加工業に転向し、一部は出荷業務の経験を買われ統制組合の職員に採用された。

戦時体制化の漁業生産は、燃油、漁具漁網、その他の資材が極端に不足し、資材は凡て配給制となり、漁船のトン数、機関の馬力数により割当てられ、しかも、指定水揚地に対する水揚数量に応じて、リンク制により配給された。これらはすべて農林省出先機関の仙台資材調整事務所で発行する証明書によって指示された。塩釜における調整事務所には、小島清五郎さんが勤務していた。

このように、戦時体制の強化により、終戦直前(昭和二十年)株式会社塩釜魚市場の株式は水産業会に譲渡の形で集約され、魚市場の経営は、完全に宮城県水産業会の掌中に帰し、同業会が戦中および戦後の水産物配給統制実施下の集出荷業務を担当するに至った。

昭和二十年八月十五日、陰惨を極めた大東亜戦争に終止符がうたれ、終戦処理に大きな不安を残しながらも、国民の間には新しい希望と息吹きを感ずるようになった。政府は漁業界の生産意欲の昂揚をねらいとして、昭和二十年十月生鮮魚介類の配給統制と価格統制を撤廃したが、漁業生産量が極度に低下している情況下にあって、魚価は急騰を続け、国民生活を甚だしく圧迫するに至ったので、政府は昭和二十一年三月再び配給、価格の両面にわたって統制を行ったのである。

その後、政府は復興銀行等の融資によって漁業の再建をはかって、生産の増強をはかると同時に水揚漁獲物の均衡配給を目的として、昭和二十二年六月、水産物配給統制規則の一部改正を行ない、生産地に複数の農林省公認の出荷機関制を採用し、また、消費地魚市場には公認荷受機関制を採り入れ、統制の枠内での競争意欲を刺戟して集荷配給の実績上昇につとめた。

その結果、久しきにわたり統制の桎梏(しっこく)によって抑圧されていた戦前の業者や地元生産者が、出荷機関を設立し、農林省の公認を得てその運営をはかるものが続出したのである。その結果各主要漁港とも集荷機関濫立の弊が見受けられるに至ったのである。

塩釜魚市場における出荷機関は統制前の出荷業者、または、生産者団体によって認可申請が相次ぎ、昭和二十四年には、

  • 宮城県漁業協同組合連合会塩釜支部
  • 塩釜海産株式会社
  • 塩釜地区機船底曳網秋刀魚棒受網漁業協同組合
  • 塩釜漁船株式会社
  • 福島県いわし揚操網漁業協同組合塩釜支部
  • 東北水産株式会社
  • 宮城県冷凍商工業協同組合塩釜支所
  • 大洋漁業株式会社塩釜営業所

等八ツの機関が設立され農林省の指示に従い所謂計画集出荷の業務を経営した。当時は、漁業生産も低調であったので農林省が定めた計画責任数量の集出荷業績を収め得ないで、業務を中止するものもあり、統制末期まで業務を継続したものは五機関であった。

しかるに、各漁港とも出荷機関濫立の弊と統制方式の矛盾によって、かもし出された弊害が次第に露呈し経営が苦しくなり、又は、滞貸金、不良債権の累積によって経営が二進も三進もならないものが出て、地方業界に混乱をもたらすに至ったが、塩釜魚市場においても例外なしに相当に痛手を負うものがあった。

かくして、昭和二十五年三月政府はわが国の漁業生産の伸展の情状を観察した結果、水産物の配給統制と価格統制を全国的に撤廃したので魚市場はようやく自由経済本然の姿で商業的取引の場に復帰したのである。

ちなみに、公認出荷機関とは、昭和二十二年六月水産物配給統制規則の一部改正により、農林大臣または、知事が公認した水産物の集出荷機関で、主要なる漁獲物陸揚地を甲級として大臣の認可制であり、その他の陸揚地は乙級とし知事の認可制となっていた。宮城県は石巻・渡波・女川・気仙沼・塩釜の五港が甲級陸揚地として指定され、公認をうけた機関は各々魚市場において集出荷業務を経営したのである。

当時各出荷機関は、農林省水産局駐在官の指示をうけて、漁獲物の集出荷計画を樹立し仙台事務所長の承認を得、出荷証明書の交付をうけて県内は勿論のこと、六大都市および関東地方一円に向け出荷供給を担当することを目的としたものである。

仙台には農林省水産局仙台事務所が所在し、次の東北六県主要漁港を管轄した。

  • 宮城県は 前記五港
  • 岩手県は 釜石・宮古・大船渡
  • 青森県は 青森・八戸
  • 福島県は 小名浜・江名

これ等甲級陸揚地に指定された地区には、各々駐在官が常駐しており、秋田県および山形県の漁港は乙級に指定され駐在官の常駐はなかった。

昭和二十三年七月農林省水産局は廃局となり新たに農林省外局として水産庁が設置されたので、同年十一月農林省水産局仙台事務所は水産庁仙台駐在所と改称されて、東北六県主要漁港における集出荷計画を樹立し、戦後逼迫せる食糧事情下の水産蛋白質の均霑(きんてん)配給を行なうためその情況を監督したのである。その後、昭和二十五年三月水産物配給統制が全面撤廃されたので仙台駐在所は廃止された。

農林省水産局仙台事務所より水産庁仙台駐在所廃止までの間在任された所長は、宮城県議会議員である木村喜代助氏であった。

七、公認出荷機関の財務整理

昭和二十五年三月三十一日水産物の配給統制が全面的に撤廃されたが、当時における公認出荷機関は不良債権や滞貸金の累積で、統制撤廃後の自由取引の場である魚市場経営を担当するためには、まことに弱体であった。

それで関係業者は先ず国家資金を導入するとか、国の補償を得て魚市場の卸売人(水産物配給統制撤廃と同時に、宮城県は魚市場條例を制定し、従来の公認出荷機関は知事の許可を得て魚市場卸売人となった)として健全な水産物流通の媒介機関として更生するか、或いは、整理解散を容易にして地方経済に混乱を来さないよう配慮するか、二者択一を迫られていることは、東北各漁港市場に共通する問題であったので、三陸沿岸の主要魚市場が呼応して国に対して戦後における国民生活経済と国民の保健に直接重要な関連をもつ生鮮魚介類を国の政策にしたがい、国が策定した計画にもとづいて、集出荷業務を担当し、戦後の混迷時における食糧配給陣の一翼を担って来た我々業者の危機を救済し、漸次生産増強の一途にある我国漁業界の進運に対応し健全な魚市場経営の基盤つくりをするため、他の重要物資の配給公団の解体に対して国が行政的な助成措置をとられた例に準じ、水産物の出荷機関に対しても、国の行政的措置を願いたい趣意で、塩釜が率先して政府に陳情するため、当時の出荷機関を代表して、椎名長兵衛さんと筆者が上京し、経済安定局、農林省、大蔵省等の要路に陳情したが「君らが国の方針にもとづいて業務を経営し、使命を果たした功績は認めるが、戦後自由経済への復帰を期待し、企業的意欲で事業計画をすすめ公認をうけたものであるから、国が行政的に配慮し補償をするとか、資金手当をする方法は制度的にない」との見解を示され一顧だにもされなかった。

そのようなわけで、国の行政的措置についての陳情は結実するに至らなかったが、県下主要漁港の魚市場卸売人の窮状は深刻なものがあり、急速に手を打つ必要に迫られていたので、宮城県魚市場協会(会長小松寿右衛門)において、国に対する陳情と同一趣旨で、宮城県及び県議会に対し陳情請願することになった。当時の知事は佐々木家寿治先生、水産部長は小林世紀さん、水産課長は小貫道也さんで、県議会議長は樺山氏であった。

小松会長と筆者は、県当局と議会に殆ど日参して、陳情請願を重ねた結果、当局においては集出荷機関が配給統制下にあって、県下漁業生産の経営維持と県民の食生活に寄与した功績は極めて大きかったことを認められ、県下甲級陸揚地公認出荷機関(塩釜・石巻・渡波・女川・気仙沼)の焦付金整理を促進して、健全な魚市場卸売業務者に更生せしめようとする行政的措置として、総額五千万円(当時の経済情況下にあっては非常に高額なものである)を県が債務保証して、七十七銀行から手当する方針を決定されたのである。

依って私共は、県議会対策を強力に推進することとなり、小松会長が樺山県議会議長と懇意の間柄であったので極力請願の趣旨採択を願い出て、又、県下主要卸売業務者を糾合して総務常任委員会(委員長亘理県議)及び水産常任委員会(委員長木田県議)が開会のつど請願を重ねて理解を深めることに努力したところ、某議員から、自分はこの案件には絶対反対するとの見解を表示されたので、温厚な小松会長との間に激しいやりとりの一幕があったが、九月の定例議会に上程される運びとなったので、ヤレヤレと思っていたところ、その定例議会の日の正午頃突然県水産部から筆者に電話があって、本日提案の本件について、前記某議員の反対で紛糾する雲行きだとの情報が入ったので、私は周章狼狽して、小松会長に連絡しようとしたところ、七十七銀行本店(仙台市南町)に行って居られたので、急遽上仙して報告し、県庁に急行したのであった。当時は、タクシーも希少時代であったから、二人は駆け足で県庁に赴き、小松会長はその議員の了解を取付けることに奔走し、漸く採決の見通しがついたので、夕方から開会の本会議を傍聴して、案件が全会一致で可決確定された事を見とどけ、安堵の胸を撫でおろして県庁を辞去したのが午後九時頃であった。

このようなハプニングがあったにせよ、県の温かい行政的配慮により、県下の主要生産地卸売業務者がこのクレジットを配分利用して一応危機を脱却することを得たが、地方自治体がこのような行政的措置を講ぜられたことは、全国に類例を見ないところであり、物故された佐々木知事の英断と、樺山県議会議長の理解に対し、心からなる敬謝の念惜く能わざるものがあると同時に、県当局と県議会が水産宮城の発展のため常に心を砕いておられることに思いをいたし、往時を回顧して感慨の深いものがある。

ちなみに県の債務補償によって、七十七銀行から供与されたクレジット五千万円を、県下卸売業務者が利用した金額については、いずれも完済して県の特別な配慮に応えて、いささかも迷惑をかけずに済んでいる。

八、統制撤廃後の魚市場経営と現況

前述のような経過をもって、統制撤廃後における塩釜魚市場の整備問題は海塩釜海産株式会社、冷宮城県冷凍商工業協同組合塩釜支部を中核体として伸展し、株式会社塩釜魚市場が昭和二十七年八月十一日創立総会が開催され、設立に関する諸般の手続きを完了し、同年九月一日実質業務を開始している。ここで初めてこの新設会社と塩釜地区機船底曳網漁業協同組合及び宮城県漁業協同組合連合会塩釜支所の三者が併存し、単数に近い複数の卸売機関により塩釜魚市場の機構改革が成立するに至ったのである。

新設の株式会社塩釜魚市場

創立当時の陣容は次のとおりである。

  1. 創立総会 昭和二十七年八月十一日
  2. 設立登記 同 年八月十八日
  3. 資本の額 受権資本金六千万円
    設立当時の払込金壱千五百万円
  4. 設立当時の役員名
    • 取締役社長 小松 寿右衛門
    • 同副社長 椎名 長兵衛
    • 同 岩崎 喜市
    • 専務取締役 相沢 喜源太
    • 常務取締役 小原 久也
    • 同 鈴木 新次郎
    • 同 杉山 七郎
    • 取締役 佐藤 忠吉
    • 同 菊池 新二郎
    • 同 津田 藤吉
    • 同 小松 孫三郎
    • 取締役 鈴木 忠助
    • 同 大平 義見
    • 同 宮下 新太郎
    • 同 柴 福松
    • 同 三代 義勝
    • 同 末永 保蔵
    • 同 八嶋 正太郎
    • 監査役 大橋 留吉
    • 同 遠藤 金一
    • 同 石黒 平吉
    • 同 上村 錠治
  5. 株主数は百十四名であった。

魚市場機構改革に当って取引代金決済方法として為替手形引受方法を採用したことは、制度改革のヒットであり、この制度の発案者は初代社長小松寿右衛門さんである。市場機構改革計画中、小松社長は、『今後の魚市場経営は往昔の問屋資金の支配制度的感覚では時代遅れである。これからの魚市場は骨幹機関である買受人の経済的地位の向上をはかり、上場商品の消化能力とその取引代金決済の迅速確率を期して資本の回転率を高め、渋滞不良代金の発生を防止して低率手数料時代の魚市場経営の安全を確保して生産者(荷主)の期待に応える時代であると思う。

小松の家も代々魚問屋で、その長い年月から割出した意見であるが、先ず買受業者の経済的地歩の確立にある。昔から五十集屋(いさばや)は博打(ばくち)、馬喰(ばくろう)、馬鹿五十集(ばかいさば)といって三馬鹿の中に数えられたといういい伝えがある。これは儲ければ儲けたなりに遊興等で浪費し、明日を考えない三ツのグループを指称したものと思う。

いわば商売に計画性がない、買受人は魚市場で一枚の入札で何千何万の取引が成立し、これを先行市場で販売し手取金が懐に入る。昭和初頭で千円といえば大金であり、銀行から借入れするには余程の信用がないと不可能な世の中で、入札一枚で高額な金が手に入るのが買受人の特権のようなものであった。

しかし、この金は正味自分のものでなく、問屋又は魚市場から買掛金として借金となることを忘れて、生活は派手になり気の緩みがでて、やがて商売人として脱落してゆく道程をこの目で見て来た。今後の魚市場取引は買受人が骨幹機能を果たすことが要諦である。それには買受人個々に経済的観念を植え付けることが肝要である。その方法として為替手形引受決済が一番適当と思う。この事によって手元在高資金と未決済為替手形金額とを常に照合して所謂計画経済的運営が図られ、魚代金の支払に責任をもたれるようになる。』

これが小松社長の持論であり、新社設立の條件ともなっていたので、会社執行部において協議の上この制度実施を決定したのである。当初買受業者から相当の抵抗があったが、団体協議を重ねた結果、これを実施し取引機構改革の上に大きく効果をもたらしたので、他の卸売人即ち塩釜地区機船底曳網漁業協同組合もこれを採用し、更に県下主要生産地魚市場も塩釜魚市場に準ずることとなった。

新会社は業務開始以来順調に業績を伸長し株式配当金は毎事業年度一割二分を堅持し、これを株主に対する公約的なものとしてきたが、その後人件費など営業経費の膨張により年一割に減配している。

同社は昭和三十二年度において宮城県漁業協同組合連合会が財政整理のため整備促進法の適用をうけ、不採算性の業務、施設等の整理をするに当り、塩釜魚市場における卸売業務権の譲渡をうけ、更に同連合会が所有した港町所在の冷凍製氷工場の譲渡をうけ傍系会社としてこれを経営したが、業務不振で昭和四十四年度において森田隆一部さんに譲渡している。

一、塩釜地区機船底曳網漁業協同組合

本組合は昭和三十八年、塩釜地区機船漁業協同組合と改称した。

戦後本市における機船底曳網漁業は急速に再建し、盛んに操業が行われている情況にあったので、昭和二十二年業者は塩釜機船底曳網漁業組合を組織し、組合長に本市漁業界の先覚者遠藤金一氏を推し斯業の計画的整備発展を期するところとなったが、昭和二十四年に漁業協同組合法が制定され、全国的に漁民の民主的運営が行なわれるに至り、漁業協同組合が設立される機運にあったので、前記組合は昭和二十四年一月発展的解散を行ない、新たに塩釜市並びに七ヶ浜を地区として、同年十二月五日漁業協同組合法上の塩釜地区機船底曳網漁業協同組合に改組された。初代組合長は横田善八郎さんで、組合設立以来引続きその職に推され、組合事業の伸展を図って今日に至っている。

本組合は塩釜魚市場における卸売人として水産物の流通業務を担当しているが、水産物統制撤廃後における卸売人の統合問題については、当初から協同組合の使命に徹し、組合員のための組合として存続し他と合同して業務経営をはかる意志のないことを鮮明にし業務の単独経営を基本方針とした。

本組合の組合員は、我が国漁業の進運に従い、ひとり機船底曳網漁業の経営に止まらず、鰹鮪延縄漁業、秋刀魚棒受網漁業、あるいは鮭鱒流網漁業、又は大型化の北転遠洋漁業など、多角的経営を行ない、組合組織も強化され全国有数の漁業協同組合に発展し、焼津漁業協同組合と共に東西の双璧をなしている。従って卸売業務の取扱高は、最近驚異的な増高を示している。

なお昭和四十九年度より実施された産地水産物流通加工センター形成事業にかかる補助事業により同組合が企業主体となって冷凍工場が建設され、今後魚市場業務と関連し機能的運営が期待されている。その規模の概要は次のとおりである。

  1. 敷地 5,972.06平方メートル
  2. 建物 鉄骨外壁スパンクリート造平屋建1,813.35平方メートル
  3. 冷蔵収容能力 F約2,500トン(零下30度2,000トン 同 50度500トン)

二、宮城県漁業協同組合連合会塩釜支部

この連合会(通称県魚連)の前身は宮城県水産業会である。本水産業会は戦前における本県水産業界の指導的機関であった。大東亜戦争のし烈化にしたがい国家総動員法の発令によって生鮮食料品等の配給統制方式が要請されることになり、生産資本が水産流通部門に大きな発言力をもつようになって、この水産業会が株式会社塩釜魚市場(戦前の)の株式を買取り集約し、又昭和十七年には既往の鮮魚出荷業者で組織した出荷組合(三協組合)を統合して生鮮魚介類配給統制組合を組織し、塩釜魚市場における集散両面にわたり実権を掌握して昭和二十年度以降塩釜魚市場の業務を経営した。

昭和二十四年漁業協同組合法の制定により宮城県漁業協同組合連合会に改組し、その塩釜支部をして塩釜魚市場卸売業務の経営に当った。

同連合会は二十五年三月二十日開催の水産物統制撤廃後における機構改革対策協議会において、本連合会は、将来卸売業務の経営継続を基本方針として県下各港一連の下にこの体制整備をしているので、この本質的方針を変えることはできない旨を明確にし単独業務経営に踏み切った。

しかるに、同連合会は昭和三十二年財政上整備促進法の適用をうけ、不採算性の事業を整理し、遊休施設を処分して整理体制に入ったので株式会社塩釜魚市場との間に塩釜魚市場における卸売業務権と、港町地区に所在する冷凍製氷工場の譲渡がなされた。

その結果、塩釜魚市場における卸売人は株式会社塩釜魚市場(通称マル市)と塩釜地区機船漁業協同組合(通称マルK)の二社併存の複数制となり、両者は卸売人協議会を組織し、又塩釜市魚市場買受人協同組合(昭和四十八年従来の塩釜魚市場買受人組合を中企法に基づいて合法組合に改組した)との間に緊密な協調を保ち、取引制度の強化、市場施設の改善等を建設的に推進し、本市産業経済の基底をなす塩釜魚市場の運営に努めている。

九、缶詰製造業

本市における缶詰業の創始は伊佐奈商会である。この缶詰工場は大正の初めに、当時埋め坪と呼ばれた北浜町に所在した。その跡地は現在の桜井自転車店(北浜一丁目)のところである。

この工場の資本系列は、当時大阪魚市場の個人問屋時代の大手筋といわれた店舗に成共商会と伊佐奈商会とがあり、成共商会はおもに焼竹輪などの水産加工品と塩干品を取扱い伊佐奈商会は土佐捕鯨株式会社との関連で鯨肉の取扱いを手広く行なっていたが、当時土佐捕鯨が本県鮎川港に事業所を設け金華山漁場で活躍した時代で、同社が関連事業として鯨肉専門の缶詰工場経営を伊佐奈商会に委ねたものと考えられる。この伊佐奈商会は大正末期まで存続していたが、その後一〇(イチマル)缶詰に改組しさらに日本水産株式会社の経営に移り、同社は戦時体制下における企業体形の変遷を経て、昭和二十五年北浜町に日本冷蔵株式会社千賀の浦工場として設備を拡張し、近代設備をもつ産業資本による缶詰工場に生まれかわった。

伊佐奈商会の塩釜進出後、間もなく地元の東海林祐五郎商店が埋め坪(北浜町)に缶詰工場を新設経営している。今の村田和洋家具店のところである。東海林商店は水産製品の外、果実の缶詰を生産目標にして本市上の原に桃畑を造り原料の自給を指向した。当時としては最も斬新な企業計画であったといえる。この工場は大正七年頃、九州の高見という人が譲り受け、もっぱら「あわび」の缶詰を製造した。この工場は昭和三年に仙台肴町の海産物問屋鈴力本店が工場設備を一時賃借したことがある。これは冬季間は「あわび」缶詰を高見工場が自営し、夏季だけ鈴力本店に使用せしめたもので、鈴力本店が昭和四年築港埋立地に工場を新設するまでの短期間であった。この工場は昭和十七年宮城県合同缶詰株式会社が設立されるまで経営が継続された。

鈴力本店が本市に缶詰業経営に進出した動機は、当時塩釜にマグロ類やサバの大漁水揚が続きその処分に腐心した時で、海産物問屋仲忠商店主鈴木忠助さんが、かねて懇意の間柄であった鈴力本店主鈴木政蔵さん(鈴力二代目)に缶詰工場経営を奨めたところ、青森市でサケ・マス缶詰の製造を経営していた義弟の鈴力支店末永保吉さんが試験的に高見工場を借り受け操業することとなり、その後経営効果の見当がついたので事業の拡張をはかるため、昭和四年に築港埋立地(現在の港町二丁目伊丹冷凍庫の向い側)に工場を新設し、鈴力缶詰所として事業を開始したのであった。

鈴力缶詰所は、塩釜魚市場へのサンマ・びん長マグロ・サバ等の大量水揚が続き、豊富な原魚で操業も活溌化し業績を収めたが、この年に水産講習所(現在の水産大学)を卒業した末永保蔵さん(保吉さんの長男=仙台鈴力商店主政蔵さんの甥)が若冠二十三歳で工場経営に当たることになり、鈴力本店から権利義務の一切を継承して本店の資金援助のもとに独立し、更に業務の拡張を期して昭和八年末、中の島に工場を新築移転し、近代的企業化をすすめた。

この頃、塩釜魚市場にサバの大量水揚があったが、当時東洋製缶株式会社専務取締役高崎達之助先生(後年通産大臣・大日本水産会々長)が水産缶詰の輸出振興のため、新製品の開発をすすめていたが、塩釜のサバに着目し、鈴力缶詰所末永保蔵さんに依頼して高崎先生指導のもとに、サバを原料として、サケ・マス缶詰と同様の製造方法を採り入れ、所謂、サーモンスタイルに改良して輸出(主にポンド地域向)することに成功し、輸出向水産缶詰製造に大きなエポックを画している。従って末永さんは、サバのサーモンスタイル製造とその輸出の開拓者ともいえる。

この鈴力缶詰が築港地に工場を新設した前後に、本市の焼竹輪製造業の先駆者兎原源四郎さんも築港貞山運河筋に缶詰工場を新設している。前に述べたように昭和三年頃から近海びん長マグロの漁が好調であったが、昭和五年の大漁の年には、宮城郡水産会を通じアメリカ輸出向として地元鮮魚業者が(当時の仲買組合が主体)大量の買付をしたことがある。当時冷凍びん長マグロ及びびん長マグロの油漬缶詰はアメリカ向け水産輸出品の花形であった。

(注)びん長マグロの油漬は七面鳥の肉と類似しており、クリスマスには欠くことの出来ないものとして珍重され、又常にアメリカ人の嗜好品として需要が伸びている。

このような情況下にあって、当時海産物問屋芳賀奈七郎商店の支配人高田哲志郎さんが斬業の有望なことに着目し、同志を糾合して昭和六年マルエス水産合資会社を設立し、前記鈴力缶詰所が中の島移転の跡地(港町二丁目)に工場を設けた。資本金は一万八千円で発足し、社員は高田哲志郎、無量井三太郎、岩崎喜市、大友亀吉、鈴木正治、鈴木多満治、大友留吉、尾形茂吉、小原久也の九名で代表社員(無限責任社員)は高田哲志郎さんであった。同社は主として、びん長マグロ油漬缶詰、サバ缶詰を製造したが、業績も順調に伸び、鈴力缶詰所と地元業界の双璧をなし、おたがいにライバル意識でしのぎをけずったものである。

冷凍びん長マグロと油漬缶詰のアメリカ向輸出量が増大するにつれ、アメリカにおける漁業生産者ならびに缶詰業者が日本製品のボイッコトを始めた。アメリカは世論の国である。結局自国製品の商品価を維持するため、日本からの輸入を制限し、且つ関税障壁を設けた。この時(昭和八年)高田さんは渡米し、約五ヶ月にわたってつぶさに観察している。

その後、マルエス水産合資会社は魚糧工場および冷凍冷蔵工場をも併営し、本市水産業界に活躍したが、世情はようやく騒然となり戦時体勢に入ったので、昭和十六年高崎達之助先生の配慮で東洋製缶株式会社の系列に加わった。

以上が戦前における本市の缶詰業界の大筋であるが、この外昭和七年頃羽淵久重さん(京都の人)が高田さんのあっせんで港町二丁目に工場を設けたが、のち、一本松(貞山通)地区に移転操業し、其の後林兼系列に加わり、昭和鮪株式会社に改組された。又、塩釜一平缶詰(港橋畔)四菱食品(株)(港町)稲井商店缶詰工場(中の島)合資会社東海魚糧(中の島)等の工場があって業界の工場があって業界の発展に寄与している。

前記鈴力缶詰所は昭和十四年株式会社鈴力缶詰所と改称し事業の伸長をはかったが、末永社長の二度にわたる応召により、営業方針の転換を余儀なくされていたが、この頃から第二次大戦の熾烈化によって国内企業の整備が行なわれ、本県の缶詰業者も昭和十七年二月には宮城県合同缶詰株式会社を設立したので、本市の既存缶詰業者もその組織下に統合された。

宮城県合同缶詰株式会社に統合参加した県内業者は二十五工場で、本市から参加したものは次の九工場であった。

  • マルエス水産(合)
  • (株)鈴力缶詰所
  • 昭和鮪缶詰(株)
  • 日本水産(株)工場
  • 塩釜一平缶詰
  • 四菱食品(株)
  • (合)東海魚糧
  • 稲井商店工場
  • 兎原源四郎

戦後統制解除によりすべての産業界は自由経済本然の姿にかえり、企業の再編成が行われたが、本市における旧業者は宮城缶詰株式会社として再出発し、中の島にあった鈴力工場を主たる事業場として事業を開始した。

なお、昭和十七年宮城県合同缶詰株式会社設立のとき、日本水産、稲井商店、兎原、東海魚糧、四菱食品は出資を機械のみとし、土地建物は各々保有しておったので、統制解除後これを利用して次のように経営形態が変った。

  • 日本水産=日本冷蔵千賀の浦工場(昭和二十五年)
  • 東海魚糧=大友水産(株)(昭和二十八年)
  • 稲井商店=林兼産業(昭和二十八年)

このように本市における缶詰業に幾多の変遷推移の跡が見られるが、戦後更に極洋捕鯨株式会社塩釜工場が昭和二十五年七月一本松地区(貞山通)に新設され、昭和二十八年六月には岩崎喜市さんを中心にして中の島に塩釜缶詰株式会社を設立、又日魯漁業株式会社系列で昭和二十九年三月、あけぼの食品株式会社が設立され缶詰工場の経営を開始したほか、昭和三十年に(株)山真缶詰が鯨肉を主体とした工場を開設した。尚本市の故丹野実さんが中の島地区で缶詰製造を試みたが二年にして閉鎖した。

缶詰は原料の種類によって大体、水産・農産・畜産缶詰に分かれ、また製法によって種々に分類されるが、本市における缶詰業は漁港としての立地條件で水産缶詰によって支えられてきたが、水産製品だけではわが国缶詰業界の趨勢に追従できないことは一般的常識となっていたので、何れの工場も水産一辺倒を脱却して農産・畜産の分野に進出した。

又、日冷・極洋・日魯などの大企業は別として地方資本による工場は製品の販売ルート確保のため、他の有力業者との提携が必要となり、宮城缶詰は静岡県の清水食品と、塩釜缶詰は清水水産と密接な関連が保たれた。

上記のように、本市における缶詰業界は、大きく変転をもって推移したが、その後、日本冷蔵株式会社千賀の浦工場は本社の営業方針により閉鎖され、宮城缶詰(株)・塩釜缶詰(株)・極洋捕鯨(株)塩釜工場・(株)山真缶詰の四社となった。しかるに、東北の斬業界に君臨し、指導的役割を果してきた宮城缶詰株式会社が昭和四十四年、突然気仙沼工場だけを存置して塩釜工場を閉鎖したことは、本市水産業界に衝動を与えたことであった。又、昭和四十年代に入って公害防止の問題が世論化し、水産加工排水の規制と環境衛生の整備が強く要請されたので、市内花立地区にあった(株)山真工場は昭和四十六年水産加工団地に移転し、近代設備をもって稼動したが、同社が九州有明湾多良町にて経営した工場が、有明湾の水銀汚染化によって主たる原魚であった「赤貝」が水産食料に使用禁止されたので閉鎖し、又、塩釜工場の生産は鯨肉専門であって、その主原料の抹香鯨もまた水銀含有量が多いことが分析上検出されたので、同社は自主的に製造を中止して昭和四十八年、施設一切を塩釜缶詰(株)に譲渡したので、本市の缶詰工場は塩釜缶詰(株)と極洋捕鯨(株)塩釜工場の二社だけとなった。塩釜缶詰(株)工場は水産加工団地に移建し、専務取締役望月武さんが陣頭指揮して、カツオマグロ缶詰とサバ缶詰を積極的に製造しているが、最近の円高ショックの影響はまぬがれぬ状況にあり、又、極洋捕鯨(株)塩釜工場(貞山通)は、石油基地緩衝地帯造成のため塩釜缶詰同様加工団地移転をすすめている。

十、製氷冷凍事業

塩釜市に製氷工場が建設されたのは、明治四十五年上水道が完成したときを契機として塩釜製氷株式会社が設立し実施したのが始まりで、これが東京以北東北地方の製氷事業の嚆矢(こうし)でもある。この製氷工場の設立によって、塩釜には何時も氷があるというので外来漁船の誘致に大きく役立ったものである。

長谷川勝治郎さん述の「佐藤久吉翁略伝」に次のように記されている。塩釜の水産界は従来利府村春日の天然水を冬期間に採取して貯蔵したものを利用していた。業者は小川胞治と菅井清四郎の二氏であった。漁況によって盛岡市の南方矢幅から天然水を移入することもあった。

夏の大漁のときは、利府からの駄送の馬を待ちきれず、赤坂橋附近まで出張って争奪戦を演ずることもあった。塩釜の魚の水揚が盛んになるにつれて氷の不足は如何ともすべからざるものとなった。この悩みを打開するには製氷工場を建設する外に方法のないことを知り、明治四十五年塩釜の上水道完成の機会に、鈴木忠助、佐藤久吉、鈴木平治の三氏が発起人となり、塩釜製氷株式会社を創立し、鈴木忠助氏を社長に推し佐藤久吉は常務取締役に鈴木平治を監査役に推し、日産五トンを製造し塩釜港の漁獲物出荷と貯蔵に貢献した。仙台に製氷会社が出来たのは、大正六年の三和製氷と大正八年創立の仙台製氷などであるから、県内における先駆的なものであった。塩釜製氷会社は漁業界の発展と共に北浜海岸に十五トン工場を増設し、なお需要にせまられて、東京の日東製氷株式会社の半額出資により、塩釜港製氷株式会社と改名、二十トン製造の設備を併設、さらに昭和二年築港に二十トンの工場と冷蔵凍結の設備を新設、仙台にも支店を設けた。とあるが、文中鈴木忠助氏とあるのは現在の仲忠商店主鈴木欽一さんの祖父八十吉さんである。筆者はこの小稿を起すにあたり、本市の海産物問屋の老舗である仲忠商店主鈴木欽一さんに本市水産業に関連ある資料の提供方をお願いしたが、チリ地震津波のため土蔵に格納してあった古い書類が水浸しになり、全部廃棄したと聞いて惜しいことをしたと嘆かざるを得なかった。勿論塩釜製氷株式会社創立当時の設立趣意書、起業目論見書などの記録もあったとの事だが一切を失ったこととなる。

この塩釜製氷株式会社開業当時のスタッフは、支配人高橋景次さんと技術担当の椎名長兵衛さんであった。椎名さんは本市製氷界の長老で地元水産業伸展のためつくされた。

同社は大正六年東京の日東製氷会社の資本参加(製氷機械類の現物出資)により、北浜海岸(当時埋坪と称された)に製氷十五トン工場を増設し、更に大正八年にも増資の上、仙台市に進出十五トン工場を設備して支店を置き、社名も塩釜港製氷株式会社と改めた。この増資にあたりプレミアムがついたとのことで、当時製氷業は地場企業の花形であったことを物語っている。

更に大正四年には山三カーバイト株式会社によって、北浜海岸に製氷工場が新設され通称三ツ和製氷と称された。これが塩釜製氷に次ぐ二番目のものである。

本市における製氷業は上記の通り塩釜製氷株式会社をもって創始された歴史をもっているが関東大震災後即ち大正十二年秋頃から、静岡、三重、高知などの各県から大型鰹船が回来して金華山漁場で活躍したので、塩釜魚市場の水揚量が増蒿し、鮮魚出荷用及び漁船漁業用の氷の需要が増大したので、大正三年には塩釜港製氷は北浜海岸に三十トン工場並びに農林省の補助をもって冷蔵庫(これが本市における冷蔵庫設備の嚆矢である)を増設したが、この外双立製氷倉庫(佐浦重治郎・桜井辰治さん)は佐浦町に二十トン工場を、東北製氷株式会社(味戸良治・亀井文平さん)は北浜町に三十トン製氷工場を新設したので、一躍日産能力百二十トンとなり、この頃が本市の製氷業界の最も華かな時代といえる。

その後、昭和三年第一期港湾修築工事の進捗に伴い、築港埋立地に魚市場開設の機運が高まったことを契機として、鹿島屋製氷(前橋市江野沢熊治郎さん)が築港埋立地に二十トン製氷工場並びに冷凍冷蔵工場の新設、続いて塩釜製氷が築港埋立地に二十五トン並びに冷凍冷蔵工場を増設したので、本市の製氷は日産百六十五トンに伸び盛況を示したが、漸く設備過剰の兆しが見え始めた時代である。

当時の工場経営は製氷を主体とし、冷凍庫の設備は塩釜製氷・鹿島屋・三和の三工場だけであったことは、市場取引業者は鮮魚取扱いに重点を置き、冷凍庫利用の要求度が少なかったためで、近年のように水産物の流通上冷凍・冷蔵が絶対不可欠の条件で、凍結・冷蔵庫を主体とする当今の工場施設の規模とその経営手段とに大きな相違があったのである。

昭和十一年塩釜港製氷株式会社は、日産コンツェルン系の日本食品工業株式会社に吸収され、初代支店長は馬上福寿さんであった。更に翌十二年には日産系水産部統合化により日本水産株式会社に併合されて同社塩釜工場となり、昭和十八年戦時統制下に帝国水産統制会社の傘下に入り、終戦後は企業再編成によって日本冷蔵株式会社塩釜工場として現在に至っている。

又、三和製氷工場は林兼(大洋漁業(株))系となり今は廃止されている。鹿島屋製氷は昭和十四年、当時の単一卸売機関であった株式会社塩釜魚市場に合併され、戦時中は宮城県水産業会の経営下にあったが、昭和三十一年宮城県漁業協同組合連合会の時代に入ってから、同連合会が整備促進のため株式会社塩釜魚市場に譲渡され、丸市冷凍株式会社として経営されたが、昭和四十四年十二月森田隆一郎さんに譲渡されカネマル冷凍株式会社と改称され、全面的に改造強化され現在に至っている。

この外、戦前に末永保蔵さんが鈴力冷凍工場を新設したが、同氏が二回にわたり応召軍務に服されたため、極洋捕鯨株式会社に譲渡し、その後極洋は増設の上現在に至っている。

更にマルエス水産合資会社(高田哲四郎さん)も製氷冷凍工場を新設したが同工場の経営主体にも変遷があり現在株式会社伊丹商店の経営するところとなり、又戦後間もなく東北水産株式会社(青島武郎さん)によって製氷冷凍工場が建設され、現在は日本冷蔵株式会社の資本系列で操業されている。

これと期を同じくして第一水産(東北製氷施設を継承)太洋製氷などの工場が建設され(この二社は塩釜漁港水産加工業協同組合が設立され工場新設の時、営業権提供の上参加し廃止した)戦後再建されたわが国漁業生産の趨勢に対応するよう整えられた。

このように本市の製氷業には幾多の転化が行われ、漁港塩釜の伸展に調和されてきたが、昭和七年当時の業者は塩釜製氷共同販売組合(一般に共販という)を設立し生産と販売を調整し氷価の安定を目的とした。なお、夏期漁業の最盛期には地元生産量では需要に応じ切れず、共販を通じて他地方から移入し、その量は一万トン乃至二万トンに達した。

塩釜製氷共販は昭和四十年まで事業が継続されたが、新浜魚市場の移転開設にあたり、業界事情の変貌によって組合機能が発揮できないので昭和四十一年から解散を前提に整理に着手現在存在しない。

この共販組合とは別に昭和二十一年宮城県冷凍商工業協同組合塩釜支部が発足し、この組合を母体として昭和二十三年公認出荷機関を経営し、水産物統制時代の集出荷業務を担当し、統制撤廃後は塩釜魚市場卸売人の業務を経営したが、昭和二十七年株式会社塩釜魚市場の設立に参加し、卸売人の業務権を同社に集約統合した。

ちなみに、大正末期から昭和初頭にかけて本市の製氷業は地方隨一の企業化された業態で、その経営陣にあった方々(桜井辰治・椎名長兵衛・宮城千之の皆さん)は塩釜の青年実業家として活躍し、又、一面地方政界にも頭角を現わし華やかな活動をされたものである。

戦後再建されたわが国漁業界の進展に伴い、塩釜魚市場の水揚量も増大し、且つ漁船漁業の大型化などによって一時氷の需要も伸び、更に魚価維持対策の一環として水産業協同組合法上の組合の設備資金に対し系統金融の途が大巾に緩和されたので、全国漁業協同組合連合会塩釜工場・宮城県南部鰹鮪漁業協同組合・仙塩水産加工業協同組合・塩釜漁港水産加工業協同組合などの大型製氷冷凍工場が建設されたが、飛躍的な発達を遂げたわが国漁船漁業は昭和四十年代に入って漁船用冷凍機の性能向上と凍結技術の発達により、凍結設備をもった漁船が急増し、洋上での漁獲物の急速冷凍が普及したので、従来大量に積込んだ保鮮用氷の需要が激減したことと、遠洋鮪漁船が大型北洋トロール船の船凍品の増産に対応して冷凍冷蔵庫を主体とする工場が新設される傾向を示し、塩釜地区水産加工業協同組合や、(株)渡会商店・(株)佐久商店など二、三の北洋漁業者によって冷凍冷蔵庫が建設されている。

また昭和四十九年、国策により全国主要漁港に実施された産地水産物加工流通センター形成事業の一環により、補助事業として塩釜地区機船漁業協同組合(組合長横田善八郎さん)が事業主体となって建設された冷凍工場や、魚市場卸売人の株式会社塩釜魚市場が中心となり、地区内水産加工業者を組合員とする塩釜魚市場水産加工業協同組合(組合長小松寿右衛門さん)が大型冷凍冷蔵工場を建設した。

このように、冷凍冷蔵工場の整備を見たことは漁港塩釜の発展を象徴するものであるが、二百カイリ漁業専管水域設定によって漁業条件が制限されている局面にあって、設備過剰となりはしないかと杞憂される一面もある。

塩釜魚市場五十年の歩みをかえりみるためには、単に魚市場の施設や機構の整備充実だけにとどまらず、塩釜周辺における漁業の発展、変遷や国、県の漁業政策、あるいは水産加工業、造船鉄工業等関連産業の発展、さらには市政とのかかわり合い等にも触れなければ生きた魚市場史にはならない。

また、明治末年以来、本市の漁業、水産業の発展のため尽力された横田善兵衛、鈴木忠助、佐藤久吉氏をはじめ、たとえば昭和五、六年ごろ底引網漁業の夏季休漁期にはじめて北洋漁場の開拓に乗りだされた門馬重作氏、また戦後いち早く本格的な北洋漁場開発に貢献された小玉助右エ門氏、鈴木兵作氏、さらには戦前から塩釜魚市場の指導者として戦中、戦後の混乱期をのりこえられた小松寿右エ門氏、塩釜地区機船漁業協同組合の横田善八郎氏ら、そのほか当魚市場の発展にご尽力された方々のご事蹟を加えれば、より生き生きした興味深いものになるはずであり、またそのようにすべきであった。

しかし、筆者の不勉強と期日のつごうでこれらの分野については少しも触れることができず、まことに不備、不満足なものになったことはまことに申しわけなく、関係者の方々に深くお詫び申しあげる次第である。

ただ、小原久也氏の原稿の一部を掲載できたこと、また本年七月、国書刊行会から刊行された「ふるさとの思い出写真集明治大正 昭和 塩釜・松島」(本市文化財保護委員長今村鏘介氏・同委員小川澄夫氏共著)中に掲載された貴重な写真を両氏のご好意によって本書に再掲を許され、本書の不備を補うことができたことは心から感謝にたえないところであった.。(高橋正己)

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