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更新日:2012年10月1日

瑞軒の道

千石船

瑞軒の道

仙台藩の買米の起源は、漠然と正宗の代、慶長の末か忠宗初世のころと推定されている。慶長14年(1609年)および同15年の史料に買米という語もみえるから、そのころからはじまっていたと考えてよい。この買米が、たしかに、すでに引用したところの「武江年表」や「米価記」にいうような大量の仙台米であるとしたら、そのような買米がつまり廻米になったものであろう。しかしそのような廻米は第二期にあたるもので、その第一期は藩主や藩士の江戸滞在用に、貢租米を運搬したことからはじまったと考えられる。それを1つの経済制度として組織したものが買米を運搬する第二期の、もしくは狭義の、廻米であったといってよい。

そのようにして経済行為となった廻米は、三代綱宗のころには、蔵米7~8万石、下々米(家中米・商人米など)7~8万石、合計15~6万石だったらしい。それが四代綱村の代には、貞享元年(1684年)で33万石、元禄3年(1690年)には31万石に達しているが、五代吉村のころには、享保15年(1730年)・16・17年に28万石台、19年には25万石となっている。後期の文化元年(1804年)から天保6年(1835年)までの例では27万石から10万石のあいだとなっている。これらを平均して当時は20万石程度は、仙台から江戸に廻米されていたことになる。

これらの廻米が仙台藩にどのような利益をもたらしたかについても、同じく藩政後期の例でいうと、藩財政収入の40パーセント前後がこの廻米による収益でまかなわれていたようで、重要な財源であったものと考えられる。
これらの廻米は海路、江戸におくられており、藩政の初期には、これらの廻米は気仙や遠島からも積みだされているし、中期には、荒浜・野蒜・寒風沢・塩竈・磯崎・石巻の港が廻米廻船の港として指定されていた。しかし、これらのうち、廻船の基地となったのは、石巻であった。仙台藩の経済は石巻・寒風沢から外へ開いていた。石巻には45棟の藩蔵があり、13万5千俵(約770トン)の米が収容できた。

当時、米を運ぶ川船=平田船は836隻、外洋航海の大型千石船=天当船も500隻からあった。800石積みという船もあった。藩の雇い船を御用穀船、民間船は渡世船と呼ばれて役料をおさめた“三十五反の帆を巻きあげて行くよ仙台・石巻”“船はちゃんころでも炭薪積まぬ、積んだ荷物は米と酒”このようにどれもこれも誇りに満ちて輸送に従事していたのである。

石巻や寒風沢を出帆した船は、はじめは常陸の那珂湊、ややおくれて下総の銚子で川にはいり、そこから内陸の水路と陸路を経由して江戸にはいった。鹿島灘や房総沖を航行する技術がまだ開発されていなかったからである。寛文11年(1671年)、幕府は伊達・信夫の城米を安全に江戸に輸送する目的で、川村瑞軒に水路の改良を命じた。瑞軒は、阿武隈川の水運を荒浜まで確実に通じ、荒浜から寒風沢に船で運び、房総沖を迂回して相模の三崎、または伊豆の下田に出て、そこから西南風をまって江戸にはいる航路を開いた。船は一升の米も損せずに江戸に達したという。

寛文11年以降は、仙台藩の廻米もまた、この“瑞軒の道”を通って江戸にむかったのであるが、しかしそれよりもだいじなことは、仙台藩の廻米ルートが、東廻り海運という、東北諸藩の江戸向け航路の一環に編みこまれてきたということである。また北上川は南部藩の江戸向け廻船の航路でもあった。津軽藩では寛永2年(1625年)青森港を開き江戸に廻米し、明暦元年(1655年)には秋田藩が土崎港から津軽海峡経由で江戸へ廻米し、寛文4年(1664年)には八戸藩も鮫港から江戸へ廻米した。こうして、仙台以北の奥羽諸藩が、東北の港を北から南へ東廻りにむすんで、石巻江戸航路に合流した。そのため、石巻は、東廻り海運随一の拠点港として、西廻り海運の酒田とともに東日本の海運経済の中心的役割を果したのであった。

この東廻り・西廻り海運のもたらした歴史上の意義は、まことに大きい。古くは新井白石が「奥羽海運記」でそのことについて論じ、これらの海運により、東北・北国経済が完全に全国経済網の一環に組みこまれることになった。

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