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各島の紹介(島名の由来)
  浦戸

 宮城郡誌に、「命名冠称の起因を繹(たづ)ぬるに、藩政時代に浦戸地方と称するは公私の称号なり、蓋し松島浦の大洋に対する門戸たる所以なるべし。」とあります。
 明治22年(1889年)自治法による市町村制導入があり、塩竈村から浦戸の4島5地区が独立し、村が誕生しました。
 当時の村議会議事録に、「宮戸村(現在の鳴瀬町の一部)が、宮城郡(松島浦)への入口(小口潜ヶ浦)として命名されたので、当地方は松島湾の門口(大口)であるため、浦戸と命名するのが良い。」とあります。こうして村議会の賛成多数により“浦戸村”と決まりました。
  桂島

 国府開設の頃、この地に桂大納言が暫時居城したことによるとしていますが、疑問とされています。
 中国万暦(400前)の日本地図の中に陸奥国一“桂島”“野島”の記載が見られます。
 「曽良」が松島に滞在した時、松島湾に浮かぶ、島々と月を見て「月桂冠の如し」と嘆じたところにより、“桂島”と呼ばれたとの説もあります。
 鹽竈神社の嘉津良比祭と関連があるとの説もあります。
  野々島

 熊野神社鐘名に、承応年代(1600年代中頃)“布島”とあります。
 「封内名蹟志巻七」には“納嚢島(のうのうしま)”と、明治22年(1889年)の戸籍には、「野々島」、大正初年頃(1900年代初め)「野之島」と書いた文書があります。
 宮城県牡鹿郡女川町にも野々浜という地区があり、この浜に比較的広い野原があるので「野々浜」と呼ばれているそうです。
  石浜

 観蹟聞老志に、「其東浜日落星浜、細石錯港、畳波来去云々」とあるように、この浜を「落星浜」と書いて石浜と訓じ、細石錯落即ち小さい石が入り混じっていると表現されているように、石浜の名前は、ここから出ているそうです。
  寒風沢

 永禄年間(1500年代中頃)“鹿倉村の大島”と呼ばれていました。
 天和2年(1683年)長南氏移住により“佐武沢”と、江戸中期に至り幕府廻来の頃に“寒風沢”と呼称するようになりました。
 寒風沢の地名の由来は明らかではありません。
 「寒風沢」をそのまま解釈すると、「吹きさらしの場所」の意味に取れます。「寒風沢」という地名は、宮城県の加美町(旧宮崎町)にもあります。加美町の「寒風沢」は、加美町から田川に沿って山形県尾花沢市に通じる山道の渓谷にある地名で、この場所の地形・雨雪の状況から生まれたのでしょう。この、加美町の「寒風沢」から、浦戸へ住民が移り住み、その地名も一緒に移ってきたとの言い伝えもあります。
 また、「サブサワ」はアイヌ語との説もあります。アイヌ語では(サブと音が近い)サムは、側・傍の意味があり、サムブツは浜の方の河口、サムネブは川岸などの意味を持っています。従って、「寒風沢」の位置や地形を表した様にも考えられます。
 安永風土期には、「当浜者表海えの風道にて四季共江戸出船仕候節、風を待合申候場所に御座候。冬は尚更風烈しく餘浜よりは格別寒き浜に御座候に付き、古来郷説にも冬寒風沢、夏小渕(宮城県牡鹿郡の浜の名)申唱十月より二月までは当浜え御穀船懸置順風を見合江戸えの出船仕候。先年寒沢と書申候処加美群寒沢と申所有之紛候に付何年の頃に御座候哉風の字を加へ相記の候由申伝候事」とあるそうです。
  朴島

 「朴島」は、もともと「鳳島」と書かれていたそうです。昔、この島に鳳凰(瑞鳥)が多くすんでいたので、この名前があると言われています。
 また、口碑によれば「寶(宝)島」とも書かれたそうです。仙台藩の軍用金や貴重な宝物をこの島に隠したからだと伝えられています。
 「封内名蹟志巻七」には“鳳羽島”と、明治戸籍編成時に“寶(宝)島”とあります。後戸籍改正時に“朴島”と書替えられました。