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| 開成丸のその後 |
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開成丸は安政3年〜4年にかけて、寒風沢山崎において建造された軍艦である。
安政4年12月25日、試航のため寒風沢港を発し気仙沼までの往復が行なわれた。
翌安政5年1月8日、無事寒風沢に帰港した顛末を小野寺鳳谷(篤謙)が、私記として記録したものである。
試航後養賢堂学田米をを、江戸品川に廻漕すること数航海の後、石巻に於いて解体されたと伝えられる。
嘉永6年(1853年)ペリーの浦賀上陸によって鎖国が破られ戦艦は急速に戦斗能力が要求されるようになり、外国船技術の導入によって開成丸の性能では時代遅れとなったことを、当時の識者は認めざるを得なかったところである。
また、開成丸を輸送船に改造しても、その構造が適当でなかった関係もあって、進水後2年にしてその姿を消す運命にあったことは誠に残念なことであり、仙台藩の苦しい財政の中であれほど盛大な開成丸の進水行事であったが泡となったわけである。
咸臨丸と比較した場合あまりにも短命であった。

開成丸調練帰帆図(仙台市博物館蔵) |

開成丸建造の木札 |
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