開成丸航海日誌 その2 前のページ 安政4年12月16日 一、十二月十六日、暴暖という程也。 惣棟梁三浦氏。久しく予か家に在りけれは、一卒を供に連れ。予と常次とともに。 畫9つ過一同發足し。塩竈町に着せし頃は黄昏に及びぬ。 下役富治其外。日新丸天開丸の下役。阿部三四郎・齋藤善五郎。御船方主惣兵衛・忠蔵等。町の入口迄出迎て。 軍艦御用酒屋三浦屋勘左衛門方え案内し。惣主立一同宿に饗應誠に懇なり。 安政4年12月17日 一、十七日。天未だ明さるうちより。 起出て御用船に上る。時しも西北風烈しく吹来れども難なく。朝五ツ頃寒風澤に着き。別に宿りを求めるにも及ばず。直に開成丸に船居住す。 水手中の喜大方ならず。此日も殊に寒かりしかと。 船中は硝子窓より明りを取り。寒風少しも吹入るべき透間なければ。懸置く所の験温器は。毎日五十一二度に上れり。 これによりてはじめての程は風に當るもの多し。 其夜は中和温暖の氣候なる所に居りて。俄かに廿度前後の甲板の上に登り。海天の寒氣に触るゝ故なり。 然れどもこれも久しく馴れたれば。後には風邪ひく者もなかりし。 安政4年12月18日 一、十八日。西風烈し。畫九ツ頃野蒜詰津方面御役人佐藤源八郎。御蔵守等引連来りて。軍艦へ附属する器械等。残らず引渡すべき旨申により。調役守屋豊治佐藤良之進・下役長南星清八郎等立会。此方にては惣主立役人方にて。帳面引合受取る。 安政4年12月19日 一、十九日。風穏也。惣主立四ツ頃出港して。兵三郎・巳之助・安治を引連て野蒜へ赴き。養賢堂御穀百表餘を受取。直に艀下船に積入れ。其夜石の巻より湊御蔵迄赴し由なり。 安政4年12月20日 一、廿日。風なし少暖也。夜四ツ頃惣主立石の巻より帰る。御穀受取の都合。ことごとく調べたるよし。 安政4年12月21日 一、廿一日。暁より西北風にて雨降る。 惣主立又々諸事取極めの為とて。養賢堂へ馳登る。序に船中にて用ゆべき。不足の品々塩竈町より買求んとて。風雨を衝て合羽引かぶりて船を出すに。桂島前にて雨晴けれども。風はいよいよ烈しくなり。激浪幾度となく舳より 安政4年12月22日 一、廿二日。風吹き止まず。油井順之輔既に廿日に承りけれども。風波の為に留まりたるとて此日一同舟を出すに。沖合に至ればいやまし激浪。昨日にまさりて覚ゆ。予も始より此造舶の事に與かり。寒風澤へ往来せしこと。已に百二三十度に及べり。此度を以て第一の風浪とすべし。身にひきまとへたる。雨合羽のたゝまりたる間に潮水数升溜りたりし。四ツ過る頃寒風澤に至り。夜に入り風静也。佐藤新之丞・手戸玄吉。並養賢堂の喜兵衛来る。此喜兵衛は文政12年の頃。御城米船の水手して呂宗国に漂流し。暗厄利亜国の船に送られて清国に至り。廣東舟山台浦を経て。長崎に送り返されたる者也。西洋法の船故に此者をして試みさせしめんとて。学頭衆より遣されたるもの也。 安政4年12月23日 一、廿三日。 朝より晴なれども波立強く。 野蒜より艀下船来らず。四時頃宗主立。並森田九平・彦三郎来る。勘左衛門は清酒壱斗入拾五樽積入て。富治と共に来り。 其酒を悉く調へけれは。惣棟梁は兼て約せし如く。惣水手壱人に付て。米弐俵に金弐歩つゝを與へ。 新雇の者共へは。金壱分つゝを與ふ。難れ有と頓首して禮謝す。 安政4年12月24日 一、廿四日。快晴にて。 野蒜より艀下船漕来りけれは。水主惣かかりにて。之を船中に積入る。惣主立は又々湊御蔵の米を受取積出すべしとて。新之丞・常治其外水手弐人を引連て。石巻に赴く。此夜は水手一統旧例なりとて。鎮守明神の宮に通夜し。海上安全を祷る事也。惣棟梁はしめ。有合ふ人々夜に入て宮に詣て拝礼す。 安政4年12月25日 一、廿五日。快晴にて。西北の風そよそよと吹来けれは。舟よそおひを預かしめ具りたる故に。 小網あまた結び付て。繋り船にもやひを取り。水手とも手繰にして。朝五つ頃寒風澤を捲出し。掛田島の向ふなる。石濱崎のほとりに碇を下し。保命船傳馬舟を左右の舷に釣上て。 八時過る頃祝砲を数発して。帆を巻立て太洋さして走り出す。岸上には村中の老若男女充満て見送れるいと勇まし。 按針役は測量の間に机を安し。羅針を置て方向を記す。測量方は舵楼に登り。量程車を海中に投じ。三拾秒の砂漏を案じて之を量るに。船の走ること拾五間に及ぶ。則ち我一時に一里廿四丁を走るべきに當れり。之を第一測となす。 沖走りの時には潮の上下と。風の替る時にには幾度も。此法を以て測量する也。既にして船入島木の島を横に見て。宮戸島を乗過ぎ葉嶋をかはして、夜五つ時第二測をなす。30秒に18間を得たり。則一時に2里走るに當る。 四つ時より。桃生郡深谷に属する大曲村の沖。五尋半の處に碇泊す。此日行程3里12丁餘を走れり。祝砲3發して船中一統酒肴を賜はりて。開帆を祝す。夜に入り風静に星斗晴朗なり。 按に。東海通行の船は。順風にして烈しく吹時は。一時の間に四五里より六里を走るべし。横風を受けて間切り走るなれば一二里乃至三四里なるべし。一時に十里走るといへるは。すさまじき暴風にて。命にかけて走る程の事也。かゝる事は一年の内に数ふる斗りのよし。西書云軽風と云は。一秒時に十尺乃至十五尺に至る。烈風は廿五尺より。三十五尺に至り。暴風は四十尺より。六十尺に至る。此外に颶風・旋風など云は。言葉にも述がたき程の風にて。西洋の大舶も動すれは。覆没の禍に係る程の事也と云。 安政4年12月26日 一、廿六日。海天晴わたり。船上の霜は雪の如し。寒氣も殊に甚し。朝飯後より帆仕度して少し乗出し。石巻より艀下船の乗出るをも待けれども。彌増に西北の風烈しく遂に船は来らず。かゝる内に八つ頃より。沖合い眞黒に曇り南風吹来れは。スハ時ならぬ東南の暴風雨も起もするやと。水主とも危ふみ。若吹来らは折の浜にや乗下さん。賀続浦にや走り入らんと。評議まちまちなるに。夕方かけて西の山の端霽上がり。風西北に轉舶すすゝめて門ノ脇村釜の沖。十余丁の處に碇を下す。日暮る時より雪ちらちら降出し。風勢烈しく吹来り。動揺殊に甚し。然れども舶は固より堅固なり。乗たる人は三年来寒風澤島に勤仕して。水上を平地の如く心得たれば。誰一人舟心ある者もなかりし。夜八つ頃雪晴ければ水手共。悉く起上りて船上の雪を掻掃ふて又打臥しぬ。 安政4年12月27日 一、廿七日。暁より西風北に移り。波浪も起らん模様なれば。今日は艀下船いかがあらんと思ひけるに。 五つ過る頃小舟一艘漕来りて。只今御穀を積出すべきまゝ。御用意あるべしと注進あれば。即ち帆を揚て川口沖。十町斗りの處に進みて碇を下す。 既にして湊御蔵より米八百俵餘。二艘の舟に積入れて漕来り。外に荷直しといへる。米を積べき若者共弐拾人程。群り来りて曳々聲して積入る。此時惣主立其外悉く帰り来れり。 御船蔵役人矢野七右衛門・下役両人・御船升入菊地屋清十郎・武山屋八右衛門。其他附属の者共数十人。伝馬舟二艘にて来る。酒肴を出してこれをもてなす。 既にして御穀も積入畢りければ。夕七時四分戌亥の風にて帆を巻揚東をさして走り出す。第一測に二十間を得たり。一時に二里八丁を走るべし、風勢いたく盛になり渡ノ波の塩焼く濱を乗過て、巳午の方に針路を取り。御崎明神の岬を廻し。小竹濱生草島を過く。左の山下は折の濱とて。 今夜三月初度航海の時。国相芝多殿若老佐々殿、並松枝殿・学頭衆をはじめ。九十余乗組。一泊せし處也。夫より桃の浦・竹の浦・狐崎を過ぎ。田代島を右に眺め。網地島と小渕濱の間なる。鮫島と云ふ小島の側。四五町斗に帆を下す。深十五尋也。此日は行程五里三丁を走る。 日暮る後より風波静になりければ。惣棟梁より水手共に祝とて。酒樽一つを與ひ。測量の間も酒肴を陳らね打興して一酌す。 安政4年12月28日 一、廿八日。昨夜より風穏なりければ。夜明る頃より甲板の上に登れば。時しも紅日滄海より飛昇り。 田代・鮫島。鮎川等の怪巌奇壁を照し出し。遥かに西には蛇ヶ岳。白髭・不忘の山等。雪の色は恰も玉をのべるたる如く。麓には富士・牧山・三国山等。白沙に沿て翠を連ぬ。寔に壮観といふべし。 今日は式日なれば。惣棟梁主立をはじめ。皆々禮服して船魂の神を拜す。水手も同じく拜賀をなす。 五つ時四分に及んで。申酉の風吹起れば。水手共いさみ立ち。これこそ天より賜る便風なり。 いざ黒崎の岬を北に押廻せと。忙しく帆を巻揚れば。第一測に十七間を得たり。一時に一里三十二丁を走るべし。 此處はさしも名たる難所なれども。此日は歳の暮。極寒の節には。二日となき穏なる日和なれば。細波瀲艶として。湖水を渉るに異ならず。 鮎川の岸上に。数多の猿とも小猿を愛して遊び戯れ。峯の上には無数の野馬。友を呼て嘶き走る。いと興あり。 忽看る海中物あり。魚とも見へず。獣にもあらず。幾度となく波浪の間に出没す。あしかいふ物にやあらん。 船中いよいよ興に入けり。長渡島の東に當り。危礁乱立して激浪雪を散すが如き。此を犬磯と号す。夏に至れば通路の船。此間より針路を定て。單に走る處なり。舟人傳云。神代の時犬ありて。此處より泳き出し。下総国銚子の岬にかけ登り。初て一聲吠えたる故。其地を名付て犬吠と○すと。其説怪誕素より弁を待たずと誰も、此處より海底一道の巌石。犬吠に連り魚蝦これに依て。夥しく生育す。是以東海は他に勝れて大漁ありと。 其説或は然らん乎。船既に黒崎の岬をかはせは。金華山巍然として海面に現れ出る。麓圓かに頂尖り。實に巨鼈の宝珠を戴きて。浮み出たる趣あり。抑此御山は。天朝始て黄金を奉りたる霊山にて。霊験殊に著るしく。近きあたりは元より也。東海を渉る船々。皆押なへて偏に御山御山と唱ふるは。独此山の事なり。鮎川より渡る處を山雉び渡しと云。斜に廿四丁と云り。 両山相迫りたる迫門内なれは。潮の進退其早き處なれども。日和よけれは何事もなく。皆々舷に倚りて四方の景色を打眺む。 辨才天の祠・大金寺抔見ゆる處に至りて。水手とも手洗ひ嗽きて。升の内に白米を盛り。之を海中に撒て合掌して、拝礼す。 北に當りて太洋中に突兀たる島を。江の島と云。属島三つあり。東に有をおじ島と云。北に有をひら島とも笠かいとも云。何とも人家は無し。江の島には漁家七十軒斗りにて。大罪人を流刑する處也。遙の北に翠黛縹渺として海中にさし出たるは。本吉郡の諸岬にして。頂尖くして雪を被るものは氷の上山なり。嶐然として諸山の表に蟠りて。雪色最燦爛たるは五葉山也。皆々この壮観に目を縦まゝにし。彼を指し此を語る。 其ひまに早くも迫門を乗過れは。風勢山々に礙げられ暫しは帆足も定らず。元より北は水色薄萌黄にあらずして薄紺色をなせり。啻に深淺に係れるのみにもあらざるべし。風既に定まり深山泊の濱に添て。此を臨んで走り出す。 寄磯の濱を離るゝ十数丁にして。二ツの島あり。二股と名付く。此邊岩壁百仭崔嵬として峙ち。怪巌奇石は潮水来てこれに觸れ。萬馬の躍るに異ならず。風景誠に云んかたなし。此邊暗礁最多くして航海に熟せさる者は乗抜かたき難處也。二股と江の島の間は。二里餘も隔りたれども。此をば乗らず。寄磯の間の狭き迫門口を。帆足を繰り楫を轉じ、辛じて乗過たり。 四つ半頃より。申酉の風となる。第二測に二十五間を得たり。一時に三里十丁を走るべし。 日脚も既に八つに至り。第3測に三十間也。一時に三里十二丁に當る。水手とも今宵は出島に碇泊せんとしけれども。惣棟梁はかゝる便風に。などて船を進めぬ法や有る。楫も直させいよいよ北に舟を遣るに。舟の傾くこと十一度に及べり。七つ頃に至りて風勢次第に北に轉ず。此より太洋中に乗出し。二度三度も大間切に間切走らば。氣仙の地方に今宵の内に走り着くこと。難きにあらねど。山風の烈しく吹来る時節には。 水手とも地方を離れて。乗行ことを深く恐るゝ習なり。殊には何地までも。正しく指したる航海にもあらねば。あらぬ艱苦して夜走りせんも無益なりと。舳を返して大須の沖の荒灘に。深さ三十三尋の處に。麻の大綱を下して碇を下す。行程は八里三十四丁に及べり。 宵の内は波風高く動揺しきりなりけれども。夜半過る頃より稍穏になりぬ。 又九つ頃地震す。海中の地震ははじめに山に鳴りひびきて。海水下よりゆり上る様に覺るなり。 安政4年12月29日 一、廿九日。暁より天氣よく。風も次第に西の方に吹廻しかば去らば帆支度すべしとて。 金星東に登るや否や碇を引揚げ。東方白む頃おひ遣り出しの帆を巻立。順風なれば眞帆をも張て走り出す。 第一測に二十二間を得たり。一時に二里十六丁を走るへし。又日の出を測量するに。辰の九度より出る。既にして長面追波を左に見て。歌津の岬に船を進む。 四ツ頃に至り風少しもなき事小半時斗り。帆を張たるままにて洋中に漂ふ。これを帆係りと稱すとなん。既にして酉戌の風吹来れば。風上間切に走り出す。第二測量に十八間を得たり。一時に二里に當る。 午中に及て太陽高度を測るに。三十八度四十二分也。此よりして風は次第に。酉より申に移りさがと稱する風になり。進む事稍速し。第三測に二十二間半を得たり。二里八丁を走るべし。畫九半時第三測に二十二間を得たり。二里十八丁を走るべし。 船は次第に北に進み。見るうちに小泉大谷の大湾を過ぎて。七ツ頃大島と波路上の間に至る。 此地は塩場ありて。播州流の石釜にて。塩を煮るを以て其品頗るよし。此岬に岩井崎といふ。怪巌連り洞穴多く潮汐を呑吐して。鯨の潮を噴か如し。此あたり黒岩白岩などいふ。巨巌海面に突出し。又陰怪の暗礁ありて。最乗易からざる處なれば。此入口にて碇を下す。深は七尋也。行程は十里五丁に及べり。則ち大島波路上の村々へ。 案内の曳舟を命じければ。大島村の升人九兵衛と云もの。早くも来りて指圖をなす。島の者共珍しき。御船を始て見たる事なれば。我も我もと小舟にとり乗り押来りて。四拾五人に及ぶ。長磯村よりも十壱人弐艘に乗りた漕来り。船を北に曳入ること二十餘丁。暮過る頃大島の亀山と。松が崎村の間に至りて碇泊す。波路上村よりも弐拾人斗り曳舟に出たれども。間に合はずして歸りたりとて。 肝入與惣兵衛と云もの来りければ。曳舟の者共へ残らず酒を賜ふ。此邊は米價頗る貴き處にて。殆ど江戸と相類す。當時は金壱両に六斗四升に當るよし。其故に清酒は下さまの者は。猥りに飲得べきにもあらねば。殊の外喜べるさまにて。頓首して携え歸りぬ。 此處北は鹿折より。氣仙沼の湾を限り。東は大島の亀山高くそびへ。西は松ヶ崎より長磯の山に。屏風を廻したる如く打圍みたれば。波風殊に穏にして。家の内に寝たるが如し。 寒風澤を乗出してより。海路二十七里19丁に及ぶ。其内に風なくして帆係りせしと。曳舟にて曳入れたるは其数を除く。 安政4年12月30日 一、晦日。水天殊にすみ渡り。岩に連る村々は烟横さまにたなびき。松島辨天島など云るかたはらに。水鳥多く群れ遊ぶさま。眞に江湖の趣あり。 此松ヶ崎は舊の国老鮎貝殿の領地にて。此人ここに在住なれば。惣主立はふる懇意なり惣棟梁も今茲の5月。北の方を巡りし頃。打連りて見參せし人なれば。惣主立は船より下りてこれを訪ふ。又此村の升入角兵衛と云者の来りて申儀は。何角に御用の爲め。 小舟壱艘晝夜ともに指上置候まま。外にも指かかりし御用をば。御心置なく承るべし。 又片濱の組頭傳吉と申者の内に。風呂を燒かせ置候まま。御入り下さるべしと。ねんごろに申。殊勝の事也。 氣仙沼の湊は。僅に一里を隔てざれば。船大工太七弟甚四郎等、小舟に乗りて来り賀す。此太七は過る乙卯の年予に隨て伊豆の国戸田浦に往て。鄂羅(ろしや)人の造れるスコーネル船を見て。夫より浦賀の鳳凰丸横浜の朝日丸を觀畢り。江戸に至りて惣棟梁を。吹擧するの時に與かり。頗る軍艦の事に縁にし有るにより。寒風澤島に業を興す時より。太七を擧て大工の棟梁として。甚四郎をば世話役の頭となし。3年此船を働きたる。功また少なからざるより。御金を賜りて褒賞する。此者共もかくまで力を盡せし。御船の思はすも。我ふるさとに廻り来たれば。其喜はいはん方なく。坐に感涙を催したるも道理なり。 五ツ過ぎる頃より。氣仙沼は申すに及はず。唐桑・鹿折・赤岩・岩付・長磯・波路上・大島・松ヶ崎の村々より。拝見の爲とて。老若男女のむれ来ること。幾千人といふかきりもなく。船中の混雑譬るに物なく。これには人々殆と困し果たりき。夜に入り祝砲に。小筒6挺拾發つつ連發して。大砲を1發す。山海にこたまして。其響夥し。船中一統酒肴を賜ふて歳暮を賀す。 安政5年1月1日 一、正月元日。暁色殊に麗はし。水手とも八ツ時より起出て。乗初の式あり。 頗る古風にていと目出度し。其後に酒肴吸物など手を盡してとりならべ。献酬の禮あり。舟歌をうたへて祝をなす。其歌に 正月ひとよの初夢に。きさらぎ山の楠を。舟につくりしはやおろし。白銀柱をおしたてて。黄金のせみをふくませて。みなは手なはにことの糸。綾や錦を帆に掛て。宝の島に乗こんで。数の宝を積こんで。あなたの蔵におさめおく。初春のゆき緋おどしの。きせなりもみな小櫻となりにけり。夏は卯の花たきねの水にあらひかは。秋となりてその色は。いづもいくさにかづ色の。紅葉にまかふにしきかは。冬は雪根にそらたれて。おもふかたきを討とめて。長き其名をあげまきや。かぶとの星の菊の座も。花やかにこそ。おとし毛のつるぎは。むこにいたさず。弓は袋におさめけり。富貴の御代とそなりにけり。右の歌。壱つづの後にはやしあり。 目出たの。ソラわか枝も。イヱーさァかァ。ようのイヱーコノ。葉もイン。 後にすけるといへる言葉にあれとも。これは唄はず十分に。満るをきらふ意なりとぞ。 明はなれて。傳馬舟に水手とも打乗り。太鼓を打てかけ聲かけ。御船を三べんめぐりて。直に此地に御崎明神に参詣す。 悉く古法あるよし也。船中は一統に上下を着し。船魂の神及び諸神諸佛も禮拝して。新玉の春の目出度を賀す。 此日は天色拭ふが如く。仲春の風光の如し。珍しき日和なり。又々拝見の群り集るきのふの如し。 夕方より士以上は肝入方へ。水手共は傳吉方へ行て風呂に浴す。身体殊に爽快を覺ふ。 夜に入り。年始の御祝とて。一統に酒肴を賜ふ。各詩を賦し歌をよみ発句など作り。打興して思はず夜を更したり。 安政5年1月2日 一、二日。朝より天氣よく。波風最穏かなり。 五つ前より昨の如く。拝見のもの群り来りて引もきらず。 四ツ頃には。松ヶ崎邑主の夫人大勢にて參られ。船中のつれづれを慰めよとて。煮たる饂飩弐桶・帆立貝百斗り・豆腐百丁・漬物色々。其外珍しき飲食物。あまた取揃て贈り賜はる。 船中にても酒肴取ならべて。饗しまゐらせ。大に興に入りて歸らる。引續て御嫡子太郎平殿・御伯父勇之進殿も被レ参。 夕方に一峯といふ。俳諧行脚の物来る。江戸の生れにて。此頃氣仙沼に杖を留るよし也。さきに惣棟梁一面の交りあるよしにて。かかる粉忙の中にも。風流の情自ら止みかたく。昨夜口すさみたるを發句として。表六句を酒杯のひまに巻たるもおかし。 あら磯も波の音なく明の春 静にわたる初船のさま 山々も霞て今朝は賑やきに ほのかに見ゆる遠の村里 續なから莚敷足ず月の影 あふげば高く雁のむれあふ 乾也 一峯 鳳谷 漸堂 谷 明哲 安政5年1月3日 一、三日。繁霜雪の如く。日の出殊にうるはし。 此日は俗に不成就日とて。事始せぬ習ゆへ。御船は乗出すまじき旨。水手共かたく申によりて。素より逗留のつもり故。 夙より起て松ヶ崎より水を汲取り。又氣仙沼の初市日なれば。炭薪の類買求めて。数十日の用意事足りぬ。 朝五ツ頃松ヶ崎邑主。初野場の歸也とて參らる。此家にては旧例として。此日家來鐵砲を携ひ。小舟に乗出しておもひおもひに。水鳥を討て献る事也とぞ。打つついて御隠居か參らる。今年84歳のよし。容貌潤沢ありて。言語應接少しも老耄の態なし。矍鑠たる様子実に驚たり。當時弐拾四五歳の妾を置て、懐胎にて居るよし。珍しき事なり。 今日も拝見の者引もきらず。其内には乗組の人々。古き親戚もあり。知る人もありて。應接誠に煩しきを覺ふ。 八ツ過る頃より。松ヶ崎の居館にて招に應じ。惣棟梁・惣主立・大槻・古川・予と。5人にて參り。村落に薄茶出て。麦飯の馳走あり。風呂をたき髪を結ひ。其上には邑主は畫を好み賜ふて。紙筆とりならべて。各々席畫して樂しみ。暮々より酒宴になり。此地の名物帆立貝・みる喰・赤貝などいふもの。取揃て厚きもてなしに。夫人達まで出賜ふて。興しあふて醉を盡しぬ。 扨又今朝の野場に。出たる家の子供帰り来りて。門前にて数十発の鉄砲を筒拂し。得物の水鳥二三十羽。積ならべて邑主の見参に入まゐらす。其中より大小の鴨四羽を頒ちて贈らる。拝謝して暇申せしは。四ツ過る頃にぞありし。 安政5年1月4日 一、四日。晴たり。 昨日より出帆の用意備りぬれば。未明明ぬうちより祝砲数発して碇を抜く。 此處は水底は深き泥なるに。重さ百六十貫匁の洋法碇に。鐵の鎖を附たるを入置きたれば。此頃の大風にけり込まれ。之を揚げるに暫し間とりぬ。 かかる間松ヶ崎へ命じ置たる曳舟三艘に。弐拾人程取乗りて。もやいを附て御船を曳出すに。 風は少しもなかりけれは。又々四方より拝見の者共群り来り。中には曳舟に手傳ふ者多かりき。 波路上前にて碇を下ろし暫し休らふ。水手共申様は。南の方空の模様も曇候へば。南東の風吹来らは幸これに過ず。 直さま綾里の岬をかはし。唐桑の濱まで押渡らん。 舵をかはせと下知しければ。九ツ時七分に舳を。巳の十五度に向て走り出す。第一測に二十間を得たり。一時に二里八丁を走るべし。 夫より巳午にて針路を取りて。乗廻す。 素より此航海は。封間近海乗渡るべき御下知なれば。氣仙郡を境とする筈なるに。時既に立春の候に係り。風勢定りなき時節にて。大方は西北の大風。西南の烈風なるべき空曇る故。強て此時気仙へ下り登るべき日和無く。むなしく僻陬の地に数日を費すも。無益の至り也。天より吹来る風に任せ。南に帰るも亦宜なりと。 南をさして既に五六里も走りたる頃。黒雲次第に四方を覆ひ。風勢漸く南に移り。雪にても降来らんか。又は南東の大時化にや変ぜんかと。衆心危み疑ければ。暮頃より舳を東に転じ。太洋さして乗出し。綾里の岬に漕付んとす。 夜五時四分第二測に十五間を得たり。 四ツ過る頃少しく地方に寄るべしとて。又々西に舳を転ず。 扨かゝる夜走りの時は。最大事の乗前なれば。表廻りは舳にあり。楫取は楫車を取て艫に立つ。表廻りより面楫・取楫。よふそろと透間もなく呼合ふ事なり。 測量の間には按針測量の人々燭を點じて。船時計に方儀を按じ。時と方向を記し。 mし我水手は常に地方を離れ。沖中に吹出さるゝを深く恐れ。 又地方には暗礁。伏沙有るを憚るゝ故に。夜は必よき程に沖に出しては地方によせ。又沖に出す故。行先はなかなか延め事也。 曉八ツ時風少しもなく暫し漂ひ。八半頃に。丑寅の風次第に吹来り。第三測に四十間を得たり。四里十六丁を走るべし。 安政5年1月5日 一、五日。明はなるゝ頃より。西方の霧次第に散じ。 五葉山・室根山雪色漸く鮮に見へ渡る。 御船は終夜洋中に往来せしに。昨夜東に乗り出したる處よりは。僅に数里の南に在りて。歌津の岬に向ひたるのみ也。 風も段々眞面に吹替れば。此風にて縦令金華山を廻し得るとも。相馬の岬に取くへし。去らは。始に定めたる如く。綾里を目かけて船を進めよと。 又々楫を転して舳を戌の廿度に向け。又子の十五度に移す。 かくして走ること一時斗り。九ツ半頃に及て。又々風は西北に転し。白波立て吹来れば。北に向ては走りかたく。又方向を未の十五度に転す。 元来我国の水手は。天度を知らず。地理もくらく。日月星辰は本よりの事にて。只に陸地の山々を目當とし。已れ已れの心得にて航海するの習なれば。萬一山のみえへざる處に至れば。神佛の應護を頼み。命の助からんことのみ。專一とすること故。冬分の東南風稀なる節には。いかなる便風吹といへども。洋中を走ることなく。又横風の烈しきに逢ば。舷より波を打込るゝ故。荷物をぬらし或は投棄て。此災を免るゝ事故に。常に地方にてもせり歩きて手間とり。石巻より僅に百八十里の海路を。一ヶ年に四度は最上。次は三度。次は二度位をもって常とする事也。 今日も始より意を決して。遠沖を走り抜かは。日の落ぬ間に金華山をも通し果べきに。無用の處を往来して。此にて終に日を暮したり。 月落て既に暗夜となれば。二股の迫門は乗入ることは為し難く。碇をここにや下さんと。深淺儀を投じたるに。四十五尋に余ぬれば。水手も遂にやむことを得ず。大勇猛心を起して。江の島の外に舟を進む。 八ツ頃より小雨降出せしに。半時斗りにて晴上り。星の光りも次第に明らかに。西北の風も左まて強からざれば。曉かけて金華山を大廻して。大磯の南にて東方はじめて白し。 安政5年1月6日 一、六日。天色。南より西にかけてくもり。西より北は山々霽渡りて。風よき程に吹来る。 第四測に二十間を得たり。一時に二里八丁に當る。 田代島を南の方一里余に見て走りぬれば。石巻は既に七里か外に有べし。牧山・蕎麦の神神取山等。水に浮て島の如し。宮戸・寒風澤も次第に近く見渡れど。逆風なればひたすらに。南より西にかけて走る。畫九ツ時。第五測三十間を得たり。三里十二丁を走るべし。 南に長くさし出たるは。岩城に近き請戸の岬なり。相馬の原釜は既に其中程にあり。扨此ままにて直に走らば。相馬路をも越へけれど。元より近海調練なれば。余に走り過しても。帰るべき順風なければ。無益に時日を費る故。八時少し前に。 名取軍閖上濱と藤塚濱の沖。一里斗里の處に碇を下す。底は十三尋にて。熊白と名付る地なり。熊白とは黒き細沙と。白き貝がらの交りたる也。暗礁には無き地にて。至極よきかゝり場のよし。波風も次第に静になれば。 翌は七種の祝なれば。碇泊の祝砲二発して船中に酒肴を賜ふ。 此航海二夜三日に走ること四十里十二丁に當れり。 安政5年1月7日 一、七日。朝より天氣よし。 沖かゝりなれば。七種の粥もなし。有合ふ餅など取集め。雑煮して式日の賀をなす。 五ツ半頃少々南風起りければ。帆を巻しとも風勢足らず。はかはかしくも走り得ず。幾へんとなく間切あるきて。暮過ぎ遂に宮城郡松ヶ浜の前に碇を下す。 此日相州浦賀の登り。同しさまに押ならんで間切しか。 是は明る八日の夕方。鰐ヶ渕にかかりたり。扨夜半過る頃に至り。又々風吹起れば。直さま帆を巻立て。曉かけて寒風澤の前なる。掛田島のならびに碇を入れ。ボート二発祝砲して夜を明す。 此航海往復日数十四日。何れもいさゝか障りなく。さまで辛き目も見得ずして。初度の乗筋日数十四日を経て。往復行程七十八里に余れり。 かくまで目出度帰帆せしは。是偏に我君の蒼生を恵ませ賜ふ。御徳の致すところ。且は塩竈一宮へ此御航造営のはじめより。幾度となく有難き御祷り。有ける應護なるべしと。船中一統感嘆に堪ざりき。 安政5年1月8日 一、八日。御船帰港の様子を見て。寒風澤に在合う役々は固より也。 水手の親族悦び合ふて来り賀する者。引きもきらず。互に無事を祝しぬ。惣主立は事の由を。養賢堂の学頭衆へ。委細に告奉らんとて。小舟に駕して走り登れり。 遂に御船おば石濱の崎に移して碇を下し。浦賀に登るべき仰を待つ。 この航海日誌は、是非、宮城県北部沿岸(牡鹿半島から気仙沼の間)の地図を見ながら読んでください。 「歌津が卯辰」だったり、「階上が波路上」だったり。仮名づかいや、旧字体等読み辛いですが、辞書を片手によむと面白いです。 長いので大変ではありましたが、私は結構楽しんで入力作業ができました。 気仙沼周辺の方は、「あーあそこね。」なんて、景色も目に浮かんで、楽しいのではないでしょうか。 この中で、「一時に四里十六丁を走るべし」なんて書いてあります。 西洋式の時間が日本入ったのは明治になってから。ここで言う一時は、1時間ではなく、昔で言う一刻のこと。およそ2時間のことですが、この頃は不定時法。日の出から日没までを六等分したのが、一刻ですから正確に2時間ではありません。1月4日(もちろん旧暦でしょう)立春ですから2時間より短いはずです。 一里は約3.93km。一丁(町)は(60間のこと。一間は約1.818mですから)約110m。 「一時に四里十六丁を走るべし」ですから、2時間で大体17.5km進んだことになります。時速で言うと約19km/hですね。 現在の船の速力はノットです。1ノットは1時間に1海里(1852m)進む時の速さだそうです。なので1ノットは約1.8km/h。今の単位では、開成丸の速力はおよそ10ノットといったところでしょうか。 この速さは、昭和49年に建造された、市営汽船「うらしお」とほぼ同じです。早いと考えるか、遅いと考えるか?同僚の“つよぽん”は「早い!」って即答してました。 長文ですみませんでした。
安政4年12月16日 一、十二月十六日、暴暖という程也。 惣棟梁三浦氏。久しく予か家に在りけれは、一卒を供に連れ。予と常次とともに。 畫9つ過一同發足し。塩竈町に着せし頃は黄昏に及びぬ。 下役富治其外。日新丸天開丸の下役。阿部三四郎・齋藤善五郎。御船方主惣兵衛・忠蔵等。町の入口迄出迎て。 軍艦御用酒屋三浦屋勘左衛門方え案内し。惣主立一同宿に饗應誠に懇なり。 安政4年12月17日 一、十七日。天未だ明さるうちより。 起出て御用船に上る。時しも西北風烈しく吹来れども難なく。朝五ツ頃寒風澤に着き。別に宿りを求めるにも及ばず。直に開成丸に船居住す。 水手中の喜大方ならず。此日も殊に寒かりしかと。 船中は硝子窓より明りを取り。寒風少しも吹入るべき透間なければ。懸置く所の験温器は。毎日五十一二度に上れり。 これによりてはじめての程は風に當るもの多し。 其夜は中和温暖の氣候なる所に居りて。俄かに廿度前後の甲板の上に登り。海天の寒氣に触るゝ故なり。 然れどもこれも久しく馴れたれば。後には風邪ひく者もなかりし。 安政4年12月18日 一、十八日。西風烈し。畫九ツ頃野蒜詰津方面御役人佐藤源八郎。御蔵守等引連来りて。軍艦へ附属する器械等。残らず引渡すべき旨申により。調役守屋豊治佐藤良之進・下役長南星清八郎等立会。此方にては惣主立役人方にて。帳面引合受取る。 安政4年12月19日 一、十九日。風穏也。惣主立四ツ頃出港して。兵三郎・巳之助・安治を引連て野蒜へ赴き。養賢堂御穀百表餘を受取。直に艀下船に積入れ。其夜石の巻より湊御蔵迄赴し由なり。 安政4年12月20日 一、廿日。風なし少暖也。夜四ツ頃惣主立石の巻より帰る。御穀受取の都合。ことごとく調べたるよし。 安政4年12月21日 一、廿一日。暁より西北風にて雨降る。 惣主立又々諸事取極めの為とて。養賢堂へ馳登る。序に船中にて用ゆべき。不足の品々塩竈町より買求んとて。風雨を衝て合羽引かぶりて船を出すに。桂島前にて雨晴けれども。風はいよいよ烈しくなり。激浪幾度となく舳より 安政4年12月22日 一、廿二日。風吹き止まず。油井順之輔既に廿日に承りけれども。風波の為に留まりたるとて此日一同舟を出すに。沖合に至ればいやまし激浪。昨日にまさりて覚ゆ。予も始より此造舶の事に與かり。寒風澤へ往来せしこと。已に百二三十度に及べり。此度を以て第一の風浪とすべし。身にひきまとへたる。雨合羽のたゝまりたる間に潮水数升溜りたりし。四ツ過る頃寒風澤に至り。夜に入り風静也。佐藤新之丞・手戸玄吉。並養賢堂の喜兵衛来る。此喜兵衛は文政12年の頃。御城米船の水手して呂宗国に漂流し。暗厄利亜国の船に送られて清国に至り。廣東舟山台浦を経て。長崎に送り返されたる者也。西洋法の船故に此者をして試みさせしめんとて。学頭衆より遣されたるもの也。 安政4年12月23日 一、廿三日。 朝より晴なれども波立強く。 野蒜より艀下船来らず。四時頃宗主立。並森田九平・彦三郎来る。勘左衛門は清酒壱斗入拾五樽積入て。富治と共に来り。 其酒を悉く調へけれは。惣棟梁は兼て約せし如く。惣水手壱人に付て。米弐俵に金弐歩つゝを與へ。 新雇の者共へは。金壱分つゝを與ふ。難れ有と頓首して禮謝す。 安政4年12月24日 一、廿四日。快晴にて。 野蒜より艀下船漕来りけれは。水主惣かかりにて。之を船中に積入る。惣主立は又々湊御蔵の米を受取積出すべしとて。新之丞・常治其外水手弐人を引連て。石巻に赴く。此夜は水手一統旧例なりとて。鎮守明神の宮に通夜し。海上安全を祷る事也。惣棟梁はしめ。有合ふ人々夜に入て宮に詣て拝礼す。 安政4年12月25日 一、廿五日。快晴にて。西北の風そよそよと吹来けれは。舟よそおひを預かしめ具りたる故に。 小網あまた結び付て。繋り船にもやひを取り。水手とも手繰にして。朝五つ頃寒風澤を捲出し。掛田島の向ふなる。石濱崎のほとりに碇を下し。保命船傳馬舟を左右の舷に釣上て。 八時過る頃祝砲を数発して。帆を巻立て太洋さして走り出す。岸上には村中の老若男女充満て見送れるいと勇まし。 按針役は測量の間に机を安し。羅針を置て方向を記す。測量方は舵楼に登り。量程車を海中に投じ。三拾秒の砂漏を案じて之を量るに。船の走ること拾五間に及ぶ。則ち我一時に一里廿四丁を走るべきに當れり。之を第一測となす。 沖走りの時には潮の上下と。風の替る時にには幾度も。此法を以て測量する也。既にして船入島木の島を横に見て。宮戸島を乗過ぎ葉嶋をかはして、夜五つ時第二測をなす。30秒に18間を得たり。則一時に2里走るに當る。 四つ時より。桃生郡深谷に属する大曲村の沖。五尋半の處に碇泊す。此日行程3里12丁餘を走れり。祝砲3發して船中一統酒肴を賜はりて。開帆を祝す。夜に入り風静に星斗晴朗なり。 按に。東海通行の船は。順風にして烈しく吹時は。一時の間に四五里より六里を走るべし。横風を受けて間切り走るなれば一二里乃至三四里なるべし。一時に十里走るといへるは。すさまじき暴風にて。命にかけて走る程の事也。かゝる事は一年の内に数ふる斗りのよし。西書云軽風と云は。一秒時に十尺乃至十五尺に至る。烈風は廿五尺より。三十五尺に至り。暴風は四十尺より。六十尺に至る。此外に颶風・旋風など云は。言葉にも述がたき程の風にて。西洋の大舶も動すれは。覆没の禍に係る程の事也と云。 安政4年12月26日 一、廿六日。海天晴わたり。船上の霜は雪の如し。寒氣も殊に甚し。朝飯後より帆仕度して少し乗出し。石巻より艀下船の乗出るをも待けれども。彌増に西北の風烈しく遂に船は来らず。かゝる内に八つ頃より。沖合い眞黒に曇り南風吹来れは。スハ時ならぬ東南の暴風雨も起もするやと。水主とも危ふみ。若吹来らは折の浜にや乗下さん。賀続浦にや走り入らんと。評議まちまちなるに。夕方かけて西の山の端霽上がり。風西北に轉舶すすゝめて門ノ脇村釜の沖。十余丁の處に碇を下す。日暮る時より雪ちらちら降出し。風勢烈しく吹来り。動揺殊に甚し。然れども舶は固より堅固なり。乗たる人は三年来寒風澤島に勤仕して。水上を平地の如く心得たれば。誰一人舟心ある者もなかりし。夜八つ頃雪晴ければ水手共。悉く起上りて船上の雪を掻掃ふて又打臥しぬ。 安政4年12月27日 一、廿七日。暁より西風北に移り。波浪も起らん模様なれば。今日は艀下船いかがあらんと思ひけるに。 五つ過る頃小舟一艘漕来りて。只今御穀を積出すべきまゝ。御用意あるべしと注進あれば。即ち帆を揚て川口沖。十町斗りの處に進みて碇を下す。 既にして湊御蔵より米八百俵餘。二艘の舟に積入れて漕来り。外に荷直しといへる。米を積べき若者共弐拾人程。群り来りて曳々聲して積入る。此時惣主立其外悉く帰り来れり。 御船蔵役人矢野七右衛門・下役両人・御船升入菊地屋清十郎・武山屋八右衛門。其他附属の者共数十人。伝馬舟二艘にて来る。酒肴を出してこれをもてなす。 既にして御穀も積入畢りければ。夕七時四分戌亥の風にて帆を巻揚東をさして走り出す。第一測に二十間を得たり。一時に二里八丁を走るべし、風勢いたく盛になり渡ノ波の塩焼く濱を乗過て、巳午の方に針路を取り。御崎明神の岬を廻し。小竹濱生草島を過く。左の山下は折の濱とて。 今夜三月初度航海の時。国相芝多殿若老佐々殿、並松枝殿・学頭衆をはじめ。九十余乗組。一泊せし處也。夫より桃の浦・竹の浦・狐崎を過ぎ。田代島を右に眺め。網地島と小渕濱の間なる。鮫島と云ふ小島の側。四五町斗に帆を下す。深十五尋也。此日は行程五里三丁を走る。 日暮る後より風波静になりければ。惣棟梁より水手共に祝とて。酒樽一つを與ひ。測量の間も酒肴を陳らね打興して一酌す。 安政4年12月28日 一、廿八日。昨夜より風穏なりければ。夜明る頃より甲板の上に登れば。時しも紅日滄海より飛昇り。 田代・鮫島。鮎川等の怪巌奇壁を照し出し。遥かに西には蛇ヶ岳。白髭・不忘の山等。雪の色は恰も玉をのべるたる如く。麓には富士・牧山・三国山等。白沙に沿て翠を連ぬ。寔に壮観といふべし。 今日は式日なれば。惣棟梁主立をはじめ。皆々禮服して船魂の神を拜す。水手も同じく拜賀をなす。 五つ時四分に及んで。申酉の風吹起れば。水手共いさみ立ち。これこそ天より賜る便風なり。 いざ黒崎の岬を北に押廻せと。忙しく帆を巻揚れば。第一測に十七間を得たり。一時に一里三十二丁を走るべし。 此處はさしも名たる難所なれども。此日は歳の暮。極寒の節には。二日となき穏なる日和なれば。細波瀲艶として。湖水を渉るに異ならず。 鮎川の岸上に。数多の猿とも小猿を愛して遊び戯れ。峯の上には無数の野馬。友を呼て嘶き走る。いと興あり。 忽看る海中物あり。魚とも見へず。獣にもあらず。幾度となく波浪の間に出没す。あしかいふ物にやあらん。 船中いよいよ興に入けり。長渡島の東に當り。危礁乱立して激浪雪を散すが如き。此を犬磯と号す。夏に至れば通路の船。此間より針路を定て。單に走る處なり。舟人傳云。神代の時犬ありて。此處より泳き出し。下総国銚子の岬にかけ登り。初て一聲吠えたる故。其地を名付て犬吠と○すと。其説怪誕素より弁を待たずと誰も、此處より海底一道の巌石。犬吠に連り魚蝦これに依て。夥しく生育す。是以東海は他に勝れて大漁ありと。 其説或は然らん乎。船既に黒崎の岬をかはせは。金華山巍然として海面に現れ出る。麓圓かに頂尖り。實に巨鼈の宝珠を戴きて。浮み出たる趣あり。抑此御山は。天朝始て黄金を奉りたる霊山にて。霊験殊に著るしく。近きあたりは元より也。東海を渉る船々。皆押なへて偏に御山御山と唱ふるは。独此山の事なり。鮎川より渡る處を山雉び渡しと云。斜に廿四丁と云り。 両山相迫りたる迫門内なれは。潮の進退其早き處なれども。日和よけれは何事もなく。皆々舷に倚りて四方の景色を打眺む。 辨才天の祠・大金寺抔見ゆる處に至りて。水手とも手洗ひ嗽きて。升の内に白米を盛り。之を海中に撒て合掌して、拝礼す。 北に當りて太洋中に突兀たる島を。江の島と云。属島三つあり。東に有をおじ島と云。北に有をひら島とも笠かいとも云。何とも人家は無し。江の島には漁家七十軒斗りにて。大罪人を流刑する處也。遙の北に翠黛縹渺として海中にさし出たるは。本吉郡の諸岬にして。頂尖くして雪を被るものは氷の上山なり。嶐然として諸山の表に蟠りて。雪色最燦爛たるは五葉山也。皆々この壮観に目を縦まゝにし。彼を指し此を語る。 其ひまに早くも迫門を乗過れは。風勢山々に礙げられ暫しは帆足も定らず。元より北は水色薄萌黄にあらずして薄紺色をなせり。啻に深淺に係れるのみにもあらざるべし。風既に定まり深山泊の濱に添て。此を臨んで走り出す。 寄磯の濱を離るゝ十数丁にして。二ツの島あり。二股と名付く。此邊岩壁百仭崔嵬として峙ち。怪巌奇石は潮水来てこれに觸れ。萬馬の躍るに異ならず。風景誠に云んかたなし。此邊暗礁最多くして航海に熟せさる者は乗抜かたき難處也。二股と江の島の間は。二里餘も隔りたれども。此をば乗らず。寄磯の間の狭き迫門口を。帆足を繰り楫を轉じ、辛じて乗過たり。 四つ半頃より。申酉の風となる。第二測に二十五間を得たり。一時に三里十丁を走るべし。 日脚も既に八つに至り。第3測に三十間也。一時に三里十二丁に當る。水手とも今宵は出島に碇泊せんとしけれども。惣棟梁はかゝる便風に。などて船を進めぬ法や有る。楫も直させいよいよ北に舟を遣るに。舟の傾くこと十一度に及べり。七つ頃に至りて風勢次第に北に轉ず。此より太洋中に乗出し。二度三度も大間切に間切走らば。氣仙の地方に今宵の内に走り着くこと。難きにあらねど。山風の烈しく吹来る時節には。 水手とも地方を離れて。乗行ことを深く恐るゝ習なり。殊には何地までも。正しく指したる航海にもあらねば。あらぬ艱苦して夜走りせんも無益なりと。舳を返して大須の沖の荒灘に。深さ三十三尋の處に。麻の大綱を下して碇を下す。行程は八里三十四丁に及べり。 宵の内は波風高く動揺しきりなりけれども。夜半過る頃より稍穏になりぬ。 又九つ頃地震す。海中の地震ははじめに山に鳴りひびきて。海水下よりゆり上る様に覺るなり。 安政4年12月29日 一、廿九日。暁より天氣よく。風も次第に西の方に吹廻しかば去らば帆支度すべしとて。 金星東に登るや否や碇を引揚げ。東方白む頃おひ遣り出しの帆を巻立。順風なれば眞帆をも張て走り出す。 第一測に二十二間を得たり。一時に二里十六丁を走るへし。又日の出を測量するに。辰の九度より出る。既にして長面追波を左に見て。歌津の岬に船を進む。 四ツ頃に至り風少しもなき事小半時斗り。帆を張たるままにて洋中に漂ふ。これを帆係りと稱すとなん。既にして酉戌の風吹来れば。風上間切に走り出す。第二測量に十八間を得たり。一時に二里に當る。 午中に及て太陽高度を測るに。三十八度四十二分也。此よりして風は次第に。酉より申に移りさがと稱する風になり。進む事稍速し。第三測に二十二間半を得たり。二里八丁を走るべし。畫九半時第三測に二十二間を得たり。二里十八丁を走るべし。 船は次第に北に進み。見るうちに小泉大谷の大湾を過ぎて。七ツ頃大島と波路上の間に至る。 此地は塩場ありて。播州流の石釜にて。塩を煮るを以て其品頗るよし。此岬に岩井崎といふ。怪巌連り洞穴多く潮汐を呑吐して。鯨の潮を噴か如し。此あたり黒岩白岩などいふ。巨巌海面に突出し。又陰怪の暗礁ありて。最乗易からざる處なれば。此入口にて碇を下す。深は七尋也。行程は十里五丁に及べり。則ち大島波路上の村々へ。 案内の曳舟を命じければ。大島村の升人九兵衛と云もの。早くも来りて指圖をなす。島の者共珍しき。御船を始て見たる事なれば。我も我もと小舟にとり乗り押来りて。四拾五人に及ぶ。長磯村よりも十壱人弐艘に乗りた漕来り。船を北に曳入ること二十餘丁。暮過る頃大島の亀山と。松が崎村の間に至りて碇泊す。波路上村よりも弐拾人斗り曳舟に出たれども。間に合はずして歸りたりとて。 肝入與惣兵衛と云もの来りければ。曳舟の者共へ残らず酒を賜ふ。此邊は米價頗る貴き處にて。殆ど江戸と相類す。當時は金壱両に六斗四升に當るよし。其故に清酒は下さまの者は。猥りに飲得べきにもあらねば。殊の外喜べるさまにて。頓首して携え歸りぬ。 此處北は鹿折より。氣仙沼の湾を限り。東は大島の亀山高くそびへ。西は松ヶ崎より長磯の山に。屏風を廻したる如く打圍みたれば。波風殊に穏にして。家の内に寝たるが如し。 寒風澤を乗出してより。海路二十七里19丁に及ぶ。其内に風なくして帆係りせしと。曳舟にて曳入れたるは其数を除く。 安政4年12月30日 一、晦日。水天殊にすみ渡り。岩に連る村々は烟横さまにたなびき。松島辨天島など云るかたはらに。水鳥多く群れ遊ぶさま。眞に江湖の趣あり。 此松ヶ崎は舊の国老鮎貝殿の領地にて。此人ここに在住なれば。惣主立はふる懇意なり惣棟梁も今茲の5月。北の方を巡りし頃。打連りて見參せし人なれば。惣主立は船より下りてこれを訪ふ。又此村の升入角兵衛と云者の来りて申儀は。何角に御用の爲め。 小舟壱艘晝夜ともに指上置候まま。外にも指かかりし御用をば。御心置なく承るべし。 又片濱の組頭傳吉と申者の内に。風呂を燒かせ置候まま。御入り下さるべしと。ねんごろに申。殊勝の事也。 氣仙沼の湊は。僅に一里を隔てざれば。船大工太七弟甚四郎等、小舟に乗りて来り賀す。此太七は過る乙卯の年予に隨て伊豆の国戸田浦に往て。鄂羅(ろしや)人の造れるスコーネル船を見て。夫より浦賀の鳳凰丸横浜の朝日丸を觀畢り。江戸に至りて惣棟梁を。吹擧するの時に與かり。頗る軍艦の事に縁にし有るにより。寒風澤島に業を興す時より。太七を擧て大工の棟梁として。甚四郎をば世話役の頭となし。3年此船を働きたる。功また少なからざるより。御金を賜りて褒賞する。此者共もかくまで力を盡せし。御船の思はすも。我ふるさとに廻り来たれば。其喜はいはん方なく。坐に感涙を催したるも道理なり。 五ツ過ぎる頃より。氣仙沼は申すに及はず。唐桑・鹿折・赤岩・岩付・長磯・波路上・大島・松ヶ崎の村々より。拝見の爲とて。老若男女のむれ来ること。幾千人といふかきりもなく。船中の混雑譬るに物なく。これには人々殆と困し果たりき。夜に入り祝砲に。小筒6挺拾發つつ連發して。大砲を1發す。山海にこたまして。其響夥し。船中一統酒肴を賜ふて歳暮を賀す。 安政5年1月1日 一、正月元日。暁色殊に麗はし。水手とも八ツ時より起出て。乗初の式あり。 頗る古風にていと目出度し。其後に酒肴吸物など手を盡してとりならべ。献酬の禮あり。舟歌をうたへて祝をなす。其歌に 正月ひとよの初夢に。きさらぎ山の楠を。舟につくりしはやおろし。白銀柱をおしたてて。黄金のせみをふくませて。みなは手なはにことの糸。綾や錦を帆に掛て。宝の島に乗こんで。数の宝を積こんで。あなたの蔵におさめおく。初春のゆき緋おどしの。きせなりもみな小櫻となりにけり。夏は卯の花たきねの水にあらひかは。秋となりてその色は。いづもいくさにかづ色の。紅葉にまかふにしきかは。冬は雪根にそらたれて。おもふかたきを討とめて。長き其名をあげまきや。かぶとの星の菊の座も。花やかにこそ。おとし毛のつるぎは。むこにいたさず。弓は袋におさめけり。富貴の御代とそなりにけり。右の歌。壱つづの後にはやしあり。 目出たの。ソラわか枝も。イヱーさァかァ。ようのイヱーコノ。葉もイン。 後にすけるといへる言葉にあれとも。これは唄はず十分に。満るをきらふ意なりとぞ。 明はなれて。傳馬舟に水手とも打乗り。太鼓を打てかけ聲かけ。御船を三べんめぐりて。直に此地に御崎明神に参詣す。 悉く古法あるよし也。船中は一統に上下を着し。船魂の神及び諸神諸佛も禮拝して。新玉の春の目出度を賀す。 此日は天色拭ふが如く。仲春の風光の如し。珍しき日和なり。又々拝見の群り集るきのふの如し。 夕方より士以上は肝入方へ。水手共は傳吉方へ行て風呂に浴す。身体殊に爽快を覺ふ。 夜に入り。年始の御祝とて。一統に酒肴を賜ふ。各詩を賦し歌をよみ発句など作り。打興して思はず夜を更したり。 安政5年1月2日 一、二日。朝より天氣よく。波風最穏かなり。 五つ前より昨の如く。拝見のもの群り来りて引もきらず。 四ツ頃には。松ヶ崎邑主の夫人大勢にて參られ。船中のつれづれを慰めよとて。煮たる饂飩弐桶・帆立貝百斗り・豆腐百丁・漬物色々。其外珍しき飲食物。あまた取揃て贈り賜はる。 船中にても酒肴取ならべて。饗しまゐらせ。大に興に入りて歸らる。引續て御嫡子太郎平殿・御伯父勇之進殿も被レ参。 夕方に一峯といふ。俳諧行脚の物来る。江戸の生れにて。此頃氣仙沼に杖を留るよし也。さきに惣棟梁一面の交りあるよしにて。かかる粉忙の中にも。風流の情自ら止みかたく。昨夜口すさみたるを發句として。表六句を酒杯のひまに巻たるもおかし。 あら磯も波の音なく明の春 静にわたる初船のさま 山々も霞て今朝は賑やきに ほのかに見ゆる遠の村里 續なから莚敷足ず月の影 あふげば高く雁のむれあふ 乾也 一峯 鳳谷 漸堂 谷 明哲 安政5年1月3日 一、三日。繁霜雪の如く。日の出殊にうるはし。 此日は俗に不成就日とて。事始せぬ習ゆへ。御船は乗出すまじき旨。水手共かたく申によりて。素より逗留のつもり故。 夙より起て松ヶ崎より水を汲取り。又氣仙沼の初市日なれば。炭薪の類買求めて。数十日の用意事足りぬ。 朝五ツ頃松ヶ崎邑主。初野場の歸也とて參らる。此家にては旧例として。此日家來鐵砲を携ひ。小舟に乗出しておもひおもひに。水鳥を討て献る事也とぞ。打つついて御隠居か參らる。今年84歳のよし。容貌潤沢ありて。言語應接少しも老耄の態なし。矍鑠たる様子実に驚たり。當時弐拾四五歳の妾を置て、懐胎にて居るよし。珍しき事なり。 今日も拝見の者引もきらず。其内には乗組の人々。古き親戚もあり。知る人もありて。應接誠に煩しきを覺ふ。 八ツ過る頃より。松ヶ崎の居館にて招に應じ。惣棟梁・惣主立・大槻・古川・予と。5人にて參り。村落に薄茶出て。麦飯の馳走あり。風呂をたき髪を結ひ。其上には邑主は畫を好み賜ふて。紙筆とりならべて。各々席畫して樂しみ。暮々より酒宴になり。此地の名物帆立貝・みる喰・赤貝などいふもの。取揃て厚きもてなしに。夫人達まで出賜ふて。興しあふて醉を盡しぬ。 扨又今朝の野場に。出たる家の子供帰り来りて。門前にて数十発の鉄砲を筒拂し。得物の水鳥二三十羽。積ならべて邑主の見参に入まゐらす。其中より大小の鴨四羽を頒ちて贈らる。拝謝して暇申せしは。四ツ過る頃にぞありし。 安政5年1月4日 一、四日。晴たり。 昨日より出帆の用意備りぬれば。未明明ぬうちより祝砲数発して碇を抜く。 此處は水底は深き泥なるに。重さ百六十貫匁の洋法碇に。鐵の鎖を附たるを入置きたれば。此頃の大風にけり込まれ。之を揚げるに暫し間とりぬ。 かかる間松ヶ崎へ命じ置たる曳舟三艘に。弐拾人程取乗りて。もやいを附て御船を曳出すに。 風は少しもなかりけれは。又々四方より拝見の者共群り来り。中には曳舟に手傳ふ者多かりき。 波路上前にて碇を下ろし暫し休らふ。水手共申様は。南の方空の模様も曇候へば。南東の風吹来らは幸これに過ず。 直さま綾里の岬をかはし。唐桑の濱まで押渡らん。 舵をかはせと下知しければ。九ツ時七分に舳を。巳の十五度に向て走り出す。第一測に二十間を得たり。一時に二里八丁を走るべし。 夫より巳午にて針路を取りて。乗廻す。 素より此航海は。封間近海乗渡るべき御下知なれば。氣仙郡を境とする筈なるに。時既に立春の候に係り。風勢定りなき時節にて。大方は西北の大風。西南の烈風なるべき空曇る故。強て此時気仙へ下り登るべき日和無く。むなしく僻陬の地に数日を費すも。無益の至り也。天より吹来る風に任せ。南に帰るも亦宜なりと。 南をさして既に五六里も走りたる頃。黒雲次第に四方を覆ひ。風勢漸く南に移り。雪にても降来らんか。又は南東の大時化にや変ぜんかと。衆心危み疑ければ。暮頃より舳を東に転じ。太洋さして乗出し。綾里の岬に漕付んとす。 夜五時四分第二測に十五間を得たり。 四ツ過る頃少しく地方に寄るべしとて。又々西に舳を転ず。 扨かゝる夜走りの時は。最大事の乗前なれば。表廻りは舳にあり。楫取は楫車を取て艫に立つ。表廻りより面楫・取楫。よふそろと透間もなく呼合ふ事なり。 測量の間には按針測量の人々燭を點じて。船時計に方儀を按じ。時と方向を記し。 mし我水手は常に地方を離れ。沖中に吹出さるゝを深く恐れ。 又地方には暗礁。伏沙有るを憚るゝ故に。夜は必よき程に沖に出しては地方によせ。又沖に出す故。行先はなかなか延め事也。 曉八ツ時風少しもなく暫し漂ひ。八半頃に。丑寅の風次第に吹来り。第三測に四十間を得たり。四里十六丁を走るべし。 安政5年1月5日 一、五日。明はなるゝ頃より。西方の霧次第に散じ。 五葉山・室根山雪色漸く鮮に見へ渡る。 御船は終夜洋中に往来せしに。昨夜東に乗り出したる處よりは。僅に数里の南に在りて。歌津の岬に向ひたるのみ也。 風も段々眞面に吹替れば。此風にて縦令金華山を廻し得るとも。相馬の岬に取くへし。去らは。始に定めたる如く。綾里を目かけて船を進めよと。 又々楫を転して舳を戌の廿度に向け。又子の十五度に移す。 かくして走ること一時斗り。九ツ半頃に及て。又々風は西北に転し。白波立て吹来れば。北に向ては走りかたく。又方向を未の十五度に転す。 元来我国の水手は。天度を知らず。地理もくらく。日月星辰は本よりの事にて。只に陸地の山々を目當とし。已れ已れの心得にて航海するの習なれば。萬一山のみえへざる處に至れば。神佛の應護を頼み。命の助からんことのみ。專一とすること故。冬分の東南風稀なる節には。いかなる便風吹といへども。洋中を走ることなく。又横風の烈しきに逢ば。舷より波を打込るゝ故。荷物をぬらし或は投棄て。此災を免るゝ事故に。常に地方にてもせり歩きて手間とり。石巻より僅に百八十里の海路を。一ヶ年に四度は最上。次は三度。次は二度位をもって常とする事也。 今日も始より意を決して。遠沖を走り抜かは。日の落ぬ間に金華山をも通し果べきに。無用の處を往来して。此にて終に日を暮したり。 月落て既に暗夜となれば。二股の迫門は乗入ることは為し難く。碇をここにや下さんと。深淺儀を投じたるに。四十五尋に余ぬれば。水手も遂にやむことを得ず。大勇猛心を起して。江の島の外に舟を進む。 八ツ頃より小雨降出せしに。半時斗りにて晴上り。星の光りも次第に明らかに。西北の風も左まて強からざれば。曉かけて金華山を大廻して。大磯の南にて東方はじめて白し。 安政5年1月6日 一、六日。天色。南より西にかけてくもり。西より北は山々霽渡りて。風よき程に吹来る。 第四測に二十間を得たり。一時に二里八丁に當る。 田代島を南の方一里余に見て走りぬれば。石巻は既に七里か外に有べし。牧山・蕎麦の神神取山等。水に浮て島の如し。宮戸・寒風澤も次第に近く見渡れど。逆風なればひたすらに。南より西にかけて走る。畫九ツ時。第五測三十間を得たり。三里十二丁を走るべし。 南に長くさし出たるは。岩城に近き請戸の岬なり。相馬の原釜は既に其中程にあり。扨此ままにて直に走らば。相馬路をも越へけれど。元より近海調練なれば。余に走り過しても。帰るべき順風なければ。無益に時日を費る故。八時少し前に。 名取軍閖上濱と藤塚濱の沖。一里斗里の處に碇を下す。底は十三尋にて。熊白と名付る地なり。熊白とは黒き細沙と。白き貝がらの交りたる也。暗礁には無き地にて。至極よきかゝり場のよし。波風も次第に静になれば。 翌は七種の祝なれば。碇泊の祝砲二発して船中に酒肴を賜ふ。 此航海二夜三日に走ること四十里十二丁に當れり。 安政5年1月7日 一、七日。朝より天氣よし。 沖かゝりなれば。七種の粥もなし。有合ふ餅など取集め。雑煮して式日の賀をなす。 五ツ半頃少々南風起りければ。帆を巻しとも風勢足らず。はかはかしくも走り得ず。幾へんとなく間切あるきて。暮過ぎ遂に宮城郡松ヶ浜の前に碇を下す。 此日相州浦賀の登り。同しさまに押ならんで間切しか。 是は明る八日の夕方。鰐ヶ渕にかかりたり。扨夜半過る頃に至り。又々風吹起れば。直さま帆を巻立て。曉かけて寒風澤の前なる。掛田島のならびに碇を入れ。ボート二発祝砲して夜を明す。 此航海往復日数十四日。何れもいさゝか障りなく。さまで辛き目も見得ずして。初度の乗筋日数十四日を経て。往復行程七十八里に余れり。 かくまで目出度帰帆せしは。是偏に我君の蒼生を恵ませ賜ふ。御徳の致すところ。且は塩竈一宮へ此御航造営のはじめより。幾度となく有難き御祷り。有ける應護なるべしと。船中一統感嘆に堪ざりき。 安政5年1月8日 一、八日。御船帰港の様子を見て。寒風澤に在合う役々は固より也。 水手の親族悦び合ふて来り賀する者。引きもきらず。互に無事を祝しぬ。惣主立は事の由を。養賢堂の学頭衆へ。委細に告奉らんとて。小舟に駕して走り登れり。 遂に御船おば石濱の崎に移して碇を下し。浦賀に登るべき仰を待つ。 この航海日誌は、是非、宮城県北部沿岸(牡鹿半島から気仙沼の間)の地図を見ながら読んでください。 「歌津が卯辰」だったり、「階上が波路上」だったり。仮名づかいや、旧字体等読み辛いですが、辞書を片手によむと面白いです。 長いので大変ではありましたが、私は結構楽しんで入力作業ができました。 気仙沼周辺の方は、「あーあそこね。」なんて、景色も目に浮かんで、楽しいのではないでしょうか。 この中で、「一時に四里十六丁を走るべし」なんて書いてあります。 西洋式の時間が日本入ったのは明治になってから。ここで言う一時は、1時間ではなく、昔で言う一刻のこと。およそ2時間のことですが、この頃は不定時法。日の出から日没までを六等分したのが、一刻ですから正確に2時間ではありません。1月4日(もちろん旧暦でしょう)立春ですから2時間より短いはずです。 一里は約3.93km。一丁(町)は(60間のこと。一間は約1.818mですから)約110m。 「一時に四里十六丁を走るべし」ですから、2時間で大体17.5km進んだことになります。時速で言うと約19km/hですね。 現在の船の速力はノットです。1ノットは1時間に1海里(1852m)進む時の速さだそうです。なので1ノットは約1.8km/h。今の単位では、開成丸の速力はおよそ10ノットといったところでしょうか。 この速さは、昭和49年に建造された、市営汽船「うらしお」とほぼ同じです。早いと考えるか、遅いと考えるか?同僚の“つよぽん”は「早い!」って即答してました。 長文ですみませんでした。
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