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| 開成丸の建造と命名 |
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文化元年(1804年)レザノフが日本との通商を求めてきたが、幕府はこれを拒否したため、ロシアでは千島に報復攻撃を加えてきた。
文化4年(1807年)仙台藩に出動命令がくだり石浜水道より2,000人の藩兵を出動させ、北辺の警護にあたらせ、南下に備えた。
これから50年後の安政2年(1855年)4月に仙台藩は蝦夷地の警備を命じられた。
仙台藩はここに次三男を屯田兵として移住させ、新仙台領を建設しようとして藩領編入を願い、安政6年(1859年)に許可された。
養賢堂学頭大槻習斎を中心に「開物、成務」の計画をたて武備をかためながら、西洋式新技術を採り入れ軍制改革を推進していた。
兵学主任小野寺鳳谷(寒風沢・石浜・船入島の砲台設計者)が藩命によって江戸の造船技術家三浦乾也を招聘し、安政2年8月26日寒風沢字山崎の地で着工、翌4年7月14日完成を見た。
船の長さ110尺・幅25尺・高さ19尺2寸・2本マスト・洋式大砲9門を備えた日本最初の洋式軍艦として建造され、開物成務より開と成をとって開成丸と命名した。
その造艦の碑が寒風沢日和山の麓に建っている。
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| 開成丸の進水図 |
開成丸調練帰帆図(仙台市博物館蔵) |
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| 造艦の碑 |
開成丸模型 (壱番館に展示) |
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