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| 榎本艦隊入港当時の浦戸 |
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慶応4年6月より仙台藩の江戸、京都への政治的連絡は主に海路によった。
各藩の要人の出入も多く、浦戸諸島は急に軍船の重要港として利用されるのである。
島民の総動員は言語に尽し得ないものがあったことは当然である。
幕艦開陽は8月28日東名浜に到着、同日午後仙台藩宮城丸に曳かれ湾内深く進航し、27日石浜水道に入港した回天と共に投錨した。
浦役人長南清八郎に各艦の修理についての協力の命が降り、各島の肝入りが集められその分担が定められた。
石浜造船所には数十名の船大工しかいないので、塩竈、石巻、気仙沼は勿論南部藩や岩代藩からの応援大工を募り総勢200人前後の職人が昼夜交代で修理が行われたと古老が語り伝えている。
浦戸諸島は寛文の海運時代より千石船の集会の地であったので、補修資材の運搬は容易であり、薪炭などは南部方面から大量に搬出し、食料は寒風沢にある幕府直轄米、仙台藩倉庫より補給し、3千人の将兵の食生活は満足だったらしい。
将兵は毎日海浜に出て調練や鉄砲の射撃訓練をしていたことは杉浦清介の日記にも書いている。
大工のことで当地にこんなことが伝えられている。南部大工は、仕事が早いが仕上げは粗末で、気仙大工は、日暮れに精を出し仕事は早い。諺に仕事が早いが下手な人を南部大工、日暮れに精を出して働くのを気仙大工とよんでいる。このことは当時交代制で仕事をしたためか、また、特徴があったのかわからない。
飲料水や蒸気機関用の水には苦労したらしい。高瀬船、平田船を改良し、水船(給水船)として数十隻が高城川上流や浜田山峡の流水を一日数回運搬したという。
近在からは煎売船が酒肴、餅、果物、青物野菜、漬物を売るため4〜50隻の小舟で艦も島内も大盛況をきわめ、漁師達は毎日獲る魚では足りなかった。
9月15日、仙台藩は降伏と決まったので、榎本武揚外の補佐する幹部、林董、沢太郎左衛門、荒井郁之助、甲賀源吉、仏教官プリュネー、カズヌーフ外も浦戸諸島に滞留中の軍艦に引揚げた。
10月初旬、各艦の修理もほぼ完成、出港準備に忙しい日が続いていた。
塩竈・松島・東名・四ヶ浜に集結した兵を潜ヶ浦に拿捕していた千秋丸(秋田藩)に乗せ、仙台藩の大江丸、鳳凰を合わせ9隻の艦船に3千数百余の旧幕の名士多数を分乗せしめ10月12日石浜水道より出港して行った。
榎本武揚は出港に際し、各戸に相応の謝金や賃金の支払を済ませ艦に引揚げたという。
翌明治2年3月、官軍の海軍8隻榎本艦隊を追って石浜、寒風沢水道に立寄り2日間の碇泊中に浦戸4島より物資を徴発し鶏までもいなくなり、徹底的な経済の打撃を受けた。その外記録、文献なども持去られてしまった。
ある旧家では今でも獅子頭を門戸より入れない程の凝りようである。
これは、古老達三代にわたる説話をまとめたもので、桂島内海徳一郎(当68)氏の祖々母の話では、浦戸の米倉は武器弾薬庫に使用せられ、幕兵が各戸に割当てられ宿泊し、毎日数回軍艦との連絡のため肝入りから小舟差出の割当があり島民は多忙をきわめ、隊員等は死を覚悟していたらしく、家族への手紙や金銭の送り届けを託され、後にその約束を果たしたという。
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