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| ラッコ船日誌の話 |
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この日誌の主は長南栄蔵さんで、寒風沢に生まれ育った人です。
日記は、明治36年から同44年ラッコ猟禁猟までの9年間にわたる出港から帰港まで詳細に記録したものです。
1975年(浦戸の今昔1出版時点)に、長南栄蔵さんとラッコ船時代を経験された方が、3人生存していました。浦戸石浜の秋元留七さん(当時96歳)、同高橋忠太郎さん(当時96歳)、泉市(現在の仙台市泉区)の梅森元吉さん(当時96歳)です。この3翁からお話を聞くことができ、日記の内容がさらに明確に把握されました。
浦戸石浜に回漕業を営んでいた白石廣造さんという人が、明治29年頃政府からの奨励金の交附を受け「ラッコ猟」をはじめることになりました。
元石浜の海岸に造船所を設け、洪栄丸(99トン)を建造しました。この当時では最新鋭船として注目を浴びました。続いて開盛丸、権現丸、北辰丸、東長丸と出猟させ、ラッコ船時代として繁栄しました。
石巻の芝山英三さん、気仙沼の水上助三郎さんもラッコ船数隻の船主でした。白石廣造さんとともに、三陸沖の魚場を開発し、そして北洋漁業の開拓に貢献した人々です。
ラッコはカワウソに似た海獣の一種で、昔はカリフォルニアやメキシコ、北海道沿岸に多く棲生していました。この毛皮が大変貴重であったため乱獲され、現在ではアラスカ方面にわずかに生棲するにすぎません。日記の中にも漁期間に30頭も獲れば大漁とされていました。
秋元留七翁はラッコ猟について次のように話しています。
本船のマストに見張番が2、3人いてラッコの姿を捜し、発見するとボートが降ろされます。ボートには「トモカキ」、「ナカカキ」、「マイカキ」それにハンターが乗組んで、ラッコとの根くらべが始ります。
ラッコはとても悧口な、そして用心深い性質の動物ですから近づくのが大変です。しばらく離れず近よらず様子を伺います。そのうち危険がないとみると、ラッコは海面に腹を上にしたり前「ヒレ」を出したりして仮眠をします。
そこが大事なところなので、オールの水音をたてないように細心の注意をはらいます。射程距離に近づき“コトン”と足踏みをする。ラッコは“ヒョイ”と頭を上げる。その瞬間を撃つのがコツなのです。
その当時の銃は村田式の元込めの2連発で、十番とか十二番の口径を使っていました。
日本のラッコ船はアラスカやベーリング海方面に出漁しました。外国警備艦に拿捕されたり、銃撃を受け死傷した者も相当あったようです。特に日露戦争当時の事故が多いようでした。
「明治37年8月1日 カバイラン山より銃撃される。」このようなことが、日記の随所に記されています。
明治42年3月3日の出漁のことを次のように話しています。
白石商会所属のラッコ船が石浜港に集結し、オール、フライ旗を揚げ、船主や船長外船員が2百4・5十人揃って神社に参篭します。各家々では訪問の人で賑わい、大盤振舞いです。出港が近くなると海岸一パイに見送人が出ます。岩手・新潟・富山・福島の船員の家族もいました。
船が岸を離れると万歳の声と、島内の神社仏閣の鐘が一せいに撞きならされます。ラッコ船上からは銃砲や手吹きラッパで応えながら帆を巻き揚げ出航します。
開盛丸はこのような感激を胸に30名乗組んで、金華山沖よりシャトル向け直航しました。この中には4人の外人も測量手や通訳として乗込んでいました。しかし、この年は大変な事件に出会ったのです。
長南栄蔵氏の日記を抜粋してみます。
4月30日 米沿岸に到着す。水取りのためスツカに入船す。港口に人家30軒許りあり。
5月3日 午後3時30分出帆の用意す。米国旗を掲げ、小汽船きたる。皆軍人なり。密漁したとして船長(設楽多吉)捕る。午後10時全員鉄窓に入れらる。
5月5日 洋食を拒み日本食を要求す。梅森氏(運転手)再度談判し日本食を摂る。
5月16日 軍艦にてジュノーに送らる。
9月23日 午後0時30分無罪の判決あり。
10月9日 シャトル丸に乗船日本に向う。
10月28日 午前8時横浜上陸水上署に於て尋問を受け帰される。
嗚呼今年は如何なる悪年なのか。となげいている。
明治44年12月15日 「我々の業禁猟と成る」とありここで長南栄蔵氏の日誌は終わるのである。
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