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| ラッコ船の基地占守(シュムシュ)島 |
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千島列島の最北端に位し、西岸は幌筵島柏原湾、村上湾と指呼の間にあり、東岸約6マイルの占守海峡を隔てて、カムチャッカの南端ロバトカ岬に対する。南西から北東へ稍長く30キロ、最大幅20キロ、面積38,875町歩。緩い丘陵が起伏して、高山がなく、四嶺山、象頭山、松村山、三塚山などすべて200メートル以下である。最大の別飛沼をはじめ無数の湖沼が散在し、これらを源に20余の大小河川がゆるく流れている。北岸の今井崎、国端崎の間は砂浜であるが、その他は海蝕による断崖で、多くの岩礁があるため、港湾としては幌円に面する片岡湾があるにすぎず、他に小舟を繋ぐところが、長崎、蔭ノ浦、村上崎、咲別、汐見台、白川などである。ミヤマハンノキを主体にタカネナナカマドを交えた林がつらなり、河畔には特有の柳が点在している。国有林の蓄積126万石があった。
この占守島は明治24年11月、片岡利和侍従が択捉島に渡って越冬、翌年大日本帝国水産会社の第一千島丸に乗って占守島にいたったのは、勅を奉ずる千島の調査として、この方面への関心を高める動機となった。
片岡侍従は松前丸で函館を出発、根室、色丹島を調査して択捉島に上陸越年した。25年5月、第一千島丸に搭乗、各島に立ち寄り、7月4日幌筵島の良港オットマイ(柏原湾)に入港、さらに対岸の占守島モヨロップに上陸、調査をおこない、8月27日軍艦磐城に乗じて根室に向った。
岡本監輔が東京第一中学校の教え子、茨城県人関熊太郎らと同志を募り、千島議会を創立、明治25年(1892)帆船「占守丸」を仕立て、千島開発を試みた。

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