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ラッコ船(ラッコ船の基地占守(シュムシュ)島の話)
ラッコ船の基地占守(シュムシュ)島の話


 北洋での食料薪炭の供給基地は占守(シュムシュ)島であり、郡司大尉の援助に期待するものが多かったようです。
 占守島は千島列島の最北端に位置し、西岸は幌筵(ホロムシロ)島柏原湾、村上湾と指呼の間にあり、東岸約6里の占守海峡を隔てて、カムチャッカの南端口バトカ岬に対する。占守島は南西から北東にやや長く30km、最大幅20km、面積38.875町歩、ゆるい丘陵が起伏して無数の湖沼が散在し大小の河川がゆるやかに流れています。
 この占守島は明治24年11月片岡利和侍従が越冬し、明治25年茨城県の人で関熊太郎が千島議会を創立し千島の開発を試みました。この試みに一段と徹底した開拓を加えたのが郡司成忠海軍大尉と退役陸軍中将白瀬矗という人でありました。
 郡司氏が明治26年3月20日東京隅田川を2隻の帆船とボート5隻をもって出帆し千島に向いましたが、岩手県白糠沖で暴風にあって大型帆船1隻とボート1隻、乗組員18人を失い軍艦磐城の救助され函館に入港し、平山堯三郎氏所有帆船錦旗丸に便乗択捉に到達、そこで函館の人、馬場禎四郎の雇船泰洋丸に移乗して、8月31日占守島に上陸。そして日本人最初の北千島越冬に成功しましたが、報効会の同志達の凍死等があって結果は悲惨を極めたということであります。
 明治27・28年の日清戦争が終わると郡司大尉の報効議会は活動を再開し占守島の開拓に着手しました。
 明治29年郡司大尉は同志とその家族をひきいて占守島に移住しました。同年報効丸と占守丸を建造しラッコ猟を開始しました。
 移住者達は家畜を飼い、菜園を作り、缶詰工場を設け、小学校まで建て永住の体制を固めました。
 明治33年頃同盟丸を建造し、内地ラッコ船40余隻に対し献身的な援助を行い北洋の父として信頼されていました。
 明治37年(1904年)日露開戦当時郡司大尉は乗組19名と共にカムチャッカに渡りオゼルナヤで漁業に従事中住民に捕らえられ惨殺されたのであります。
 郡司夫人の帰国を知ったラッコ船団はその報復を協議しカバイランを占領することになりました。

長南栄蔵ラッコ船日誌

 明治38年7月30日:日本ラッコ船14隻協議し、カバイラン占領の目的をもって、緒戦としてレビラカを攻撃することとし参加緒船は次のとおり。金勢丸・三重丸・房総丸・天佑丸・大島丸・金比羅丸・一号千歳丸・二号千歳丸・東海丸・報効丸・洪栄丸・東贏丸・東奥丸・權現丸なり。
 8月1日:午前10時我が船レビラカに接岸す。偵察のため山に登る。金勢丸外次々に上陸開始す。午後1時04分攻撃開始す。敵も又大いに戦う。午後4時40分目的の山を占領す。敵は抵抗しつつ後退す。日没近きため我が方下山するを見て敵猛射を浴びせきたる。金勢丸沖より掩護射撃を盛んに行う。我等当初の目的を達成すること叶わず。
 8月2日:早暁離岸に成功、沖に出る。数名の負傷者あるも生命に異常なし。
 8月20日ペートルパウルスク沖通過。怪我人も殆んど全快す。
 9月9日:占守島沖に到着。成忠夫人等一行を見送る。
 9月19日:宮古沖に至り本年猟終了となる。

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