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| 榎本武揚とラッコ猟 |
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明治8年3月22日、榎本公使以下は国民感情を押えて日本の樺太放棄の代償として全千島列島の割譲を主張、いわゆる『千島樺太交換条約』が同年(1875年)5月7日調印された。その他オホーツク海及びカムチャッカ沿岸への出漁その他を認めさせた。後日、榎本の獲得したものはわが水産界に大益をもたらしたもので、その影響は今日にも及んでいる。
榎本は同年千島のことを編集し、5冊本としたなかにラッコ猟についても触れている。
明治9年2月27日開拓使判官に宛てた書翰中に『千島保護には軍艦を巡航させ、外国人狩猟者の領海侵犯は厳に防止されたい。
榎本助言にもあるように、千島に艦艇を派出し、また監視所を設置したが、何分にも広範囲なので、官憲も「臭上の縄を追うに異ならず」(「臘虎猟沿革」根室県)と、よほどあとになっても、お手上げであった。そしてラッコは逐年減少していった。
明治8年9月、開拓使は毛皮見本を各国に送った。それぞれ品評してくれたが、榎本が直接ロシア人からきいたところでは、日本は主にロンドン市場に出荷いているが、直接露都に出すのが利であるだろうとのことであった。
榎本は、家来の大岡金吾に命じて皮なめしの所へ弟子入りさせた。マスターはガメつく、染色秘伝授には1,000ルーブルと吹いているが、帰国のころまでにはモノにしてみせるつもり、染色技術の文献を得たので訳して送ると言う。
開拓使でも毛皮加工に清国人ををやとい、函館で伝習させたが、良品はできなかった。彼が帰国すると品質がおちた。どうも、毛皮加工は年季がいるばかりでなく、秘密が多いものらしい。大金の習得も尻切れトンボになったようだ。
明治26年(1843年)1月、榎本武揚は第二次伊藤内閣の農商務大臣となる。同年3月郡司大尉の千島壮途を援助し、明治28年にラッコ・オットセイ猟法を、明治30年には遠洋漁業奨励法を公布してえわがラッコ・オットセイ猟業の急速な発展をはかると共に、其の他の遠洋漁業をも併せて発展せしめんとした。

ラッコの毛皮
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