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| ラッコ船の遠洋漁業開始 |
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わが国で遠洋漁業が発達した根本の理由は、沿岸漁業の行き詰まりと遠洋技術の輸入にあったと思いますが外国密猟船に対抗して、日本がラッコ、オットセイ猟を急速に発展させる必要にあったからと思います。
明治24年(1891年)及び明治26年(1893年)に米、英、露が北洋海域のラッコ、オットセイの捕獲条約を締結したため、外国猟船は千島列島を南下し北海道、金華山沖、塩屋崎沖の領海まで進出し操業するにいたりました。
日本政府は明治28年(1895年)ラッコ、オットセイ猟法を公布し、明治30年(1897年)に遠洋漁業奨励法を公布して対抗せしめた結果、わが海獣猟業は急速に発達するにいたりました。
外国猟船は日本猟船に太刀打ちができなくなって明治30年(1897年)頃には日本の沿岸にその船影をみないようになりました。
明治38年(1905年)に遠洋漁業奨励を全面改訂を行って奨励金の率を高め、北洋の開拓につとめ、日本猟船が急速に北洋に遠征するに至りました。
北洋3大猟場とは、露領ローベン島・コマンドルスキー諸島・米領プリビロフ諸島近海であった。
ここに明治30年頃に使用された小学国語読本があります。この教科書の中に次のように書いてあります。
「ラッコを捕獲する法は、その群棲する処に船を近づけ、其の水上に浮かぶを覘い、銃を以て不意にこれを狙撃するなり。唯その性甚だ怜悧にして、人の声を聞けば忽ち形を波間に没するを以て之を捕獲するには最熟練を要す。
ラッコは貴重な海獣にして、其の捕獲の利甚大なるなれども、わが国極北の寒海に産するをもって往古は邦人の之を猟するものなく唯北海道人及び魯西亜(ロシア)人等の捕獲を試みるのみなりしが、寛永年間、淡路の人、高田屋嘉兵衛択捉(エトロフ)に来りラッコその外の漁業を始む。」とあって小学校教育にまでラッコ猟の必要を強調していることがうかがわれます。
高田屋嘉兵衛こそが北洋漁業の先駆者であり、このための犠牲者であったと申されましょう。
宮城県ラッコ猟の推奨につとめた農商務大臣榎本武揚、黒田清隆の秘書で仙台出身の鈴木某氏が、協力援助を行ったことについて知る人が少ないようです。
榎本武揚は戊辰戦争当時「浦戸」とは関係の深いこともあって、心尽くしの一端だったかとも推量されます。

ラッコ船 |

ラッコの皮 |

ラッコ船上の様子 |

明治頃の塩竈港 |
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