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| 浦戸村の沿革 |
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【明治以前】
本村の沿革を繹ぬるに、太古は先住民族の棲棲息せしところにして、奈良朝の頃は世々の國司に統治せられ、神龜元年甲子多賀ち鎮府を置かれしより其の治下にありしことは明らかである。
平安朝の、貞観十一年夏五月二十六日(或は七月十三日とも云う)大地震大海嘯あつて松島灣一帯の地に大地変を生じ、此時現在に現る松島の大景勝が出來たといはれて居る。
其の以前は多賀の鹽竈より桃生郡大塚濱まで沿岸傳へに公けの驛路があつて、多賀國府と桃生の柵を結ぶ官道であつたといふ。
また、この大地変以前には七ヶ濱村より本村一帯を絡み宮戸村まで陸続きであつたとも謂はれて居る。
康平の頃源頼義が陸奥守兼鎮守府将軍たりし時、其の子八幡太郎義家などが時折朴島へ出遊されたとの句碑も傳えられて居る。
平泉藤原氏の陸奥守鎮守府将軍時代には、鎮府は既に田村将軍の時丹沢に移され、多賀國府も空虚で國務は平泉で執られたものであるが、此地方は秀衡の第三子和泉三郎忠衡(和泉屋とも稱す)の所管なりしものの如し、後鳥羽天皇の文治五年源頼朝平泉藤原の四代泰衡を征討し、葛西臺岐守清重を平泉兼非違使所の軍を管せしめ奥羽の留守職として宮城郡高森城に居らしむ。
故に其より戦国の頃まで留守家の所領で其の治下であつた。
延元の頃より足利氏の勢威盛んになるに及び留守氏も其麾下に属したのであるが、大崎氏の族黒川郡の領主黒川安藝守晴氏の管するところとなりしものの如し。
此頃には留守氏の勢力は衰へ當主政景は伊達晴宗の子で留守家を継ぎ利府城に居り、黒川晴氏の女と婚したにも因れるならんか。
故に今の松島町の大部分と浦戸村東部即ち寒風澤・野々島・朴島を大谷の荘、高城の郷に編せれて高城寒風澤濱・高城野々島。高城朴島と公稱されて高城大庄屋扱となって居た。
桂島・石濱は宮城郡濱方として七ヶ濱村と共に留守家の所領で笠神大庄屋扱となって居た。
慶長以來伊達家統治三百年間明治維新に及ぶまでこの制度で取扱はれて居った。
【明治維新・大小區制】
明治維新直後藩政を布かれ藩主を以て藩知事とし、其の下に大參事小參事及び下僚を置き、村濱にはもとの肝煎役を置いて治めしめられてあつたが、藩政が廃され懸治が布かれ、此村は一時磐前懸治下に編されたことがあつたが、間もなく宮城懸令の治下となり、村濱には戸長一人、副戸長一人を置き統治された。
之は明治六、七年の頃で此時地租改正が行はれた。
明治八年に懸治の下に大區小區制となり、鹽竈・松島・利府・七ヶ濱其の他の村濱と共に第二大區に編せられ、區務所を鹽竈に置き、此村は七ヶ濱と共に小十二區として戸長一人を置き、各村濱には戸長の下に隷属する村扱といふ職を置いて取扱はしめた。小十二區の戸長は七ヶ濱松ヶ濱の太宰藤右衛門(網や麻を行商し、麻売藤右衛門と呼ばれた)よ云ふ人が官選され、本村は寒風澤・野々島・朴島を一區域として村扱一人を置き、石濱・桂島を一區域として村扱一人を置き、本村地域には二人の村扱があり、各扱所に筆生(今の書記)一、二人を置き事務を執らしめた。各部落には組長(後世の區長)を置いて村治を幇助せしめ、地籍・戸籍・徴税に至るまでは携はらしめたのであつた。
【明治・大小區制廃止】
明治十年に至り大小區制は廃止せられ、懸政の下に郡治の制が行はれ、宮城郡長として菅克復といふ人が任命され、郡役所を宮城郡南目村(今の原ノ町)に置かれ、各村戸長一人を置き取扱はしむることとなつた。
本村は舊村濱の名稱を其の儘として寒風澤濱・野々島・朴島・石濱・桂島を聯合して戸長一人を置かれ、之を寒風澤濱濱他四箇島聯合戸長と公稱した。
其の時の戸長は太田茂八郎といふ人が官選され、各部落に組長一人または二人を立て、戸長役場は寒風澤濱に置き、筆生二人を置き庶務財務等の事務を執らしめ、また各部落の戸主の推薦選挙で村会議員を挙げ村会を開始し、議員中の互選で議長を立て、戸長は議案を提出して村の経費及び学事などに関する要件を審議せしめた。
議員の定数は何名であったか不明であるが総数十二名位であつたと記憶する。
明治十年に宮城郡長菅克復氏の諭名に依り、朴島の戸数(当時十三戸)甚た少なしとの理由で之を野々島に併合せしめ、野々島の内字朴島と稱せしめられてのであるが、當時朴島住民は如何に憤慨せしかは想像するに難からず、後同十四年牡蠣漁業に関し野々島・朴島間に紛議が生じ官庁及び當局者は非常に狼狽した事があつた。
幸に調停成立して治平した。
今にして思えば戸数の如何に拘らず朴島は朴島として独立地域として存在せしめ置くは適當である。
【戸長・戸長役場の廃止】
明治十七年春、本村は戸長及び戸長役場が廃止せられ、鹽竈村に併合され、鹽竈村戸長菊池雄治氏の支配となり、戸長役場の名稱は鹽竈村外四箇島戸長役場と稱した。
此時鹽竈戸長の配下に離島取締人一人を置き、戸長役場より筆生一人を臨時に派遣して戸籍・地籍・徴税等の事務に當らしめ、離島取締人を補助せしめたのであつたが、頗る不便の點が多かつた。
離島取締人は前戸長太田茂八郎氏であつた。
【市町村制度の開始】
明治二十二年市町村自治制度の施行に當り、鹽竈村は鹽竈町となり、茲に於てこの五部落は鹽竈村の支配を脱し独立村を構成することとなり、戸主にして公民権を有する者の選挙に依り村会議員を選出した。
當時戸数二百個、人口一千二百余で村会議員の定数は八名であつた。
而して下の八名が當選した。
明治二十二年四月實施。
内海 長左衛門 (寒風澤) 鈴木 淺治 (寒風澤)
鈴木 新太郎 (野々島) 内海 文吉 (朴島)
鈴木 林右衛門 (石濱) 高橋 伊之助 (石濱)
鈴木 永三郎 (桂島) 内海 徳蔵 (桂島)
次いで年長議員内海長左衛門(元肝煎役)議長となり、村長・助役・區長の選挙を行い下の人々が當選した。
村長 白石 廣造
助役兼収入役 太田 茂八郎
區長(行政區割を六區とす)
寒風澤南区 土見 祐之助
寒風澤北区 設楽 熊蔵
石濱 高橋 安吉
桂島 内海 卯之吉
野々島 鈴木 辰次郎
朴島 尾形 清助
【村名の由来】
村名を浦戸村と稱した理由は、自治制實施直前、村命稱呼に就て有志会合の際、鈴木淺治氏の意見に、昔事此地方は石巻港と共に江戸との海運交通頻繁で船乗も多く、石巻港とは密接な関係にあつた。
當時石巻では松島湾一帯及び宮戸地方を浦戸地方と呼んでゐた。
而して又我村は松島浦正面の門戸である故浦戸村と稱するは≠オからんと提議した。
一同之に賛し浦戸村と冠稱したのである。
本村住民の多くは漁業・海運業・航海業・農業等の兼業で生業として居る。
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